津別ホーストレッキング研究会 司馬羊羹

エスティーランチ
Esty Ranch, Inc.
1977 County Road 10
Gunnison, Colorado 81230

生産品 / チモシー / 肉牛 / 概略 / 歴史 / 位置関係 / 写真館 / コンタクト

馬友の南石さんの親友が経営する牧場がアメリカ・コロラド州ガニソンにある。 エスティーランチという。エスティーランチでは2009年から北海道で開発されたホライゾンという新種のチモシーを栽培しているそうだ。 南石さんは1998年からエスティーランチへカウボーイのお手伝いに行っている。 まさに現代のリアルカウボーイだ。その写真を送って頂いていた。 死蔵したままではもったいない ので南石さんのコメントと共に皆さんに紹介することにした。司馬記 【2012年12月 UP】

コロラドのカウボーイ【夏】 / コロラドのカウボーイ【秋】 / モンタナのカウボーイ【夏】
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まずは南石さんたちガニソンのカウボーイをごらんいただこう。
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Timothy Hay and All Natural Beef Cattle from Esty Ranch
(生産品:チモシー、自然放牧による肉牛)
エスティー牧場はコロラド川の支流であるガニソン川の流域(Valley)にある。 ガニソンの町から北へ僅か4マイル、ガニソン川から約1マイルのところにある。 エスティー牧場はこの地域に入植した者たちによって作られた牧場(農場)施設の中で最も古いものの1つであり 歴史は長い。初代は、John B. Outcaltという。地域の開拓に従事した草分けの1人である。 ガニソンという町は1870年代に作り始められたが、彼は創立メンバーの1人である。 エスティー牧場は途切れることなく140年以上その機能を果たし続けている。 現在生産しているのはチモシー(良質の牧草)、最高の乾草とアンガス牛(肉牛)である。 [写真館]
Timothy Hay (Premium Horizon Variety) / Meadow Foxtail and Native Mountain Meadow High Altitude Grass Hay Mix from Esty Ranch
(エスティーランチの牧草は森林限界に近い高地で育つ)
当牧場は高地にある。その高地で育つシモシーの一種であり特に優れた品種であるホライゾン、メドーフォックステイル、 その他の高地に生える牧草やクローバー、これらを最適にミックスしたものが当牧場で生産される牧草(乾草)であり、 プレジャーホース、ロデオホースの飼料として優れている。また優秀なレースホースの飼料として特に優れている。 牧草の生育に必要な水は自然の雨とガニソン川の水を灌漑によって引いてきている。 そのため年による品質のばらつきがなく高品質を保つことができるのである。 牧草は硬くならないように栄養価が損なわれないように早い時期に収穫される。 ガニソンバレー(ガニソン川流域)は高地であり、日中暖かく日が落ちると冷える。 この気候は栄養豊富なチモシーの生育に適している。 毎年行う雑草の駆除・管理は優れており、有害な雑草が製品に混ざることはほとんどない。 (チモシー・グラース=良質の牧草)
出荷の前に全てのベイル(牧草を四角く圧縮・成型し梱包したもの)は人手で検査され、品質基準に合格しないベイルは排除される。 したがってユーザーは、新鮮で最高品質の牧草を入手することができるのである。 変形しにくく扱い易いように、製品(ベイル)のサイズは、16インチX18インチ(重量は70-80ポンド)と小さくしてある。 天候(雨風や日光)やカビ(mold)による損傷劣化を防ぐため製品は屋根のある納屋に保管される。 製品を遠隔地に輸送するときは輸送中の損傷劣化を防ぐためにタープで覆う。
アメリカにおけるチモシーの歴史は(植民地時代)1600年代後期にさかのぼる。 馬や牛の飼料として栄養価の高い牧草を得るためにスカンジナビア産の種子が持ち込まれたのである。
その起源については[チモシーの歴史]を参照されたい。
3つの独立した牧場を統合したエスティーランチ(事業体)として、 コルトという品種のチモシー・グラースを育て始めたのは2003年である。 コルトはクライマックスという品種と比べて大変優れた品種である。 コルトはクライマックスより成長が早い。コロラドのロッキー山脈の中に位置するガニソンは標高が高い。 ということは植物が成長できる期間が短いということである。したがって成長が早いということは大きな利点なのだ。 コルトのシーズヘッド(seed heads:茎の先の部分、茎から伸びている葉の長さかも?)はクライマックスのそれより長い。 そしてコルトの方が茎から出る葉の量(数)がずっと多いのである。 コルトというチモシー・グラース・ヘイ(乾草)とクライマックスというチモシー・グラース・ヘイ(乾草)のベイル (圧縮成型されたもの)を比べて見ればコルトの優秀さがわかる。マニトバ大学、農学部、植物学科の研究者たちは、 コロラドのガニソンで生産されるチモシー・グラースに関して、栄養価の点でコルトの方がクライマックスより優れている だろうと言っていたが、かれらの見解が正しかったことが証明された。
2009年、さらに改良されたチモシーであるホライゾンという新種の栽培を始めた。 この品種はコルトの持つ優れた特徴に加えて栄養価という点でさらに優れている。 ホライゾンは比較的新しい品種で日本の北部の島である北海道で開発されたものである。 栄養価に優れている点で現状ではチモシーとしては最高の品種であると評価されている。

エスティーランチでは顧客の求めに臨機応変に応えることができると自信を持っている。 自前のトレイラーを8台、53フィートの低床式のトレイラーを複数所有しているからだ。
[そのうちの1台にはエスカレーター式の荷積み台(デッキ)が取り付けられている] あなたが必要とするそのときに、チモシーグラスヘイを届けることができるのだ。 運送会社のトラックに頼れば、しばしば、1日遅かったり、1週間遅かったりということが起きるのである。 配達に関して実際に我々に何ができるか問い合わせてほしい。 【注】アメリカ東部への輸送はむろん、コンテナで輸出するなら、ガルフ(Gulf:カリイフォルニア湾?)および西海岸の港への 輸送も可能だ。[写真館]
チモシーの歴史
現在、チモシーの多くはコロラドで生産されている。 エスティーランチの当初からの品種はクライマックス種である。 クライマックス種は北ヨーロッパ種であり、1600年代の終わり頃、 独立戦争前(植民地時代)にスカンディナビアから持ち込まれたと考えられている。 クライマックスというチモシー(Thimothy/Climax)が初めてアメリカ大陸に渡ったのは、 初期の植民者がニューインングランドへ持ち込んだものとわかっている。
いま世界的に"Thimothy" grass hay(チモシー・グラース・ヘイ)と呼ばれているもの が初めて記録されたのは1700年代初頭のことである。 John Herd氏によって馬と牛の飼料として生産されたということである。 John Herd氏は、Maine/New Hampshire(メイン/ニューハンプシャー)の農場主であった。 当初、その牧草は"Herd grass"(ハード氏の牧草)と呼ばれていたが、すぐに好評を得ることになった。 馬の飼料として、特に長時間、過酷な仕事をさせられる馬の飼料として優れていたからだ。 John Herd氏には、ニューヨーク、ニューイングランドおよびカナダ南東部といった植民地に ハード氏の牧草の種を持ち込み広めたという功績がある。
"Thimothy"(チモシー)と呼ばれるグラース・ヘイ(牧草)はニューイングランドの先住民である Timothy Hanson(チモシー・ハンソン)の名に由来する。 彼はボルティモア、メリーランドに移り、1720年ころに農業(農場)を始めた。 彼はメリーランドでチモシー・ヘイおよびその種の生産を始めるにあたって"Herd's grass seed"(ハード氏の牧草の種) を使ったと伝えられている。 彼の作るチモシー・ヘイの優秀さは瞬く間に近隣に広まり、彼はすぐに種の生産に専念した。 (当時のアメリカにおいて、ホース・ヘイ=馬の飼料というものは決定的に重要であった。 今日、ガソリンやジーゼルオイルが重要であるのと同じである) アメリカにおいて、チモシー・ヘイ・シード(種)を、生産し、処理(選別、等級分け、袋詰め)し、一般に販売したのは チモシー・ハンソンが最初の人であると記録されている。 そして、チモシー・グラース・ヘイ・シード(種)が初めて商業的に販売された地はボルティモアとメリーランドであるとされる。

チモシー・グラース・ヘイ(まず第一に馬の飼料として)が人々の知るところとなり、その人気は瞬く間に植民地時代のアメリカ中に広まった。 そして、チモシー・ハンソンは、たとえ彼一人ではないとしても、チモシーの種を、大々的に、生産し、処理し、拡販し、成功を収めた者となった。 (彼は植民地時代のアメリカで農業関係で大きな成功を収めた企業家である) 当時、植民地の中心地域で、大々的に、チモシー・ヘイを人々に知らしめ、その種を販売した功績は大きい。 (当時の中心地域とは、主に、Delaware, Maryland, W New York, North Carolina, Pennsylvania and Virginiaである) 実際、彼は、しばしば、 the "Johnny Appleseed of Timothy hay"言われている。 (ジョニー・アプル・シードのチモシー版と言われている) 【注】Johnny Appleseed(ジョニー・アプル・シード:本名 John Chapman:1774-1845)とは、開拓時代にリンゴ(アプル)の 苗木を米国の辺境に分けて歩いたという伝説がある人物。

【歴史的考察】 ジョージ・ワシントンとベンジャミン・フランクリンも、チモシー・ハンソンが販売したヘイ・シード(牧草の種) に満足した顧客の1人であった。さらに、ベンジャミン・フランクリンは、個人的に、 チモシー・ハンソンが売った種を"Timothy's seed"(チモシーの種)と名付けた。 そして、ほどなく、"Timothy's seed"(チモシーの種)は、簡単に、"Timothy"(チモシー)と呼ばれるようになった。

【栄養について】 最近、チモシー・ヘイの改良種が何種類か紹介されている。ホライゾンという品種もその1つだ。 ホライゾン(特に標高の高いところで育ったもの)は、特に栄養素的に、今までのクライマックス種よりも断然優れている。 そのため、ますます、チモシー・ヘイの中でもクライマックスのみが、好成績を期待されるレースホース、ポロホース、 ロデオホース用の飼料として用いられるようになっている。 ガソリンとチモシー・ヘイを、単純に『その持っているエネルギー』という観点から考えてみよう。 標高の高いところで育った、特に優れた品質のクライマックス種のチモシー・ヘイは、 オクタン価87のガソリンの持つエネルギーに相当するだろう。 これに対し、標高の高いところで育った、特に優れた品質のホライゾン種のチモシー・ヘイは 最高ガソリンであるオクタン価93のガソリンの持つエネルギーに相当することになる。 言えることは、チモシー・グラース・ヘイの品種はいろいろあるが「それぞれちがう」ということだ。 昔からある品種と近年改良された品種では、栄養(タンパク質)、組成・構造(physical plant structure)において 著しいちがいがある。 であるから、チモシー・ヘイを買い(自分の)家畜に与えている人たちは、いろいろな品種について、 その栄養の多い少ないについて、ますます吟味するようになっている。 チモシー・ヘイの中でも、自分の馬にとって、どの品種が最高であるかを、各自が判断して決めねばならないのだ。
All Natural Beef Cattle from Esty Ranch
(ナチュラル・ビーフ・キャトル)
エスティーランチの肉牛は標高の高い地域で完璧に自然食糧によって育つ高品質の肉牛である。 子牛は2月から3月にかけて生まれ、夏の間、標高9000−12000フィートの高地で育つ。 かれらの食糧は自然が与えるものだけ、高地に育つ牧草とクローバーだけである。 水はコロラドのロッキー山脈が与えるきれいな水である。 夏および秋の早い時期は上記の自然食糧であるが、秋も深まった時期、冬場、春の間は、 当牧場で採れた各種チモシーヘイミックスと完璧に自然なミネラルの補助食糧とコロラドおよびダコタ産の 高品質の
穀類を与えている。当牧場の肉牛は、Simmenta/Black Angus cross-bred beef(シメンタアンガスとブラックアンガスを交配した牛) である。この交配により肉全体に良い霜降りができるのである。我々の目標は完全自然食料による肉牛の生産をし市場の求める牛肉を供給することである。
About Esty Ranch
(エスティーランチの概略)
現在のエスティーランチオペレイション(事業体)は、かつてそれぞれ独立していた3つの牧場を吸収したものであり、 ガニソンの中心地(町)から半径12マイルの中に広がる。
3つの内の1つであるエスティーランチはガニソンの中心地から北に3マイルの地域にあり 風光明媚なガニソンバレー(ガニソン川の流域)を流れるガニソン川の川岸から約1マイル離れている。 エスティーランチの所有面積は457エーカーである。 (1エーカーは、4047u、1226坪、4.09反。したがって総面積は約156町歩) 標高は7900フィートである。(1フィートは30.48p。したがって標高は2408m) エスティーランチで生産されるものは、
最高品質のチモシー、高地の草原で収穫された牧草から作る干し草、 シメンタ種/ブラック種を掛け合わせたアンガス種の肉牛である。 干し草はコロラド州内および他州でプレジャーホースやロデオホースの飼料として消費されている。 優秀なレースホースの飼料としても特に評判がよい。

創立者はJohn B. Outcalt、1880年のことである。このランチは、まず、Outcalt一家が、後に、 Esty一家が所有し経営にあたり、以来、100年以上運営されてきた。 そのことが、コロラド農務省およびコロラド歴史委員会に認められることとなった。

3つの内の1つがリバレーランチ(LeValley Ranch)である。面積は409エーカー。 標高は7800フィート。ガニソンの町から東へ8マイルである。 所有地内をトミチクリークとコチェトパクリークが流れている。 (Tomichi creekとCochetopa creek)(クリークは支流)

もう1つがヴェイダーランチ(Vader Ranch)である。 面積は531エーカー。 標高は7800フィート。ガニソンの町から東へ8マイル南へ2マイルである。 敷地内をコチェトパクリークが流れている。

3つの牧場を合わせて現在のエスティーランチの総面積は1,400エーカー以上になる。 さらに、川が増水した時には冠水する(flood-irrigated)広大な牧草地が1,000エーカーある。 さらに、
U.S. B.L.M. と U.S.F.S によって放牧権が認められている土地が22,798エーカーある。
(United States Bureau of Land Management & U.S. Forest Service)
The History of Esty Ranch
(エスティーランチの歴史)
エスティーランチはコロラドの歴史そのものであり、ガニソンという町の歴史についても同じことが言える。 エスティーランチもガニソンの町も最初にこの地に入植した同じ人たちによって築かれたのだ。 エスティーランチはコロラド歴史学会およびOffice of Archaeology&Historic Preservation (歴史的建造物保存委員会みたいなもの)によってコロラド・センテニアル・ファーム (コロラドにある百年以上経った牧場)に指定されている。

エスティーランチのあるガニソン一帯は風光明媚なコロラドロッキー(山脈)の中にあり、かつては金、銀、大理石、石炭、ウラニウム、モリブデンといったものの採掘が盛んであった。 また、全米の他の地域と比べても、狩猟、釣り、スキー、山歩き、ボート遊び(ブルーメサ湖) に最適の地域であると評判である。1章〜3章にガニソンおよびエスティーランチの歴史について述べる。

1章:ガニソン郡の歴史 2章:John B. Outcalt とOutcaltの家 3章:エスティーランチ

1章:ガニソン郡の歴史
ガニソン郡はコロラド山脈の西側斜面に広がり、現在のガニソンの町とクレステッド・ビュート(Crested Butte)の町は ガニソン郡の中に入る。 この地域には、高い山々のある地域に特徴的な谷間が点在し、人を寄せつけない14000フィート(4200m) の山々の間には大渓谷がいくつもある。その1つがブラックキャニオンである。すごく険しいキャニオン(大渓谷)で ガニソンナショナルパークの中にある。 同じ地域の中に流れの速い川や小さな川もいくつか流れている。それらもこの地域のすばらしさに貢献している。

ガニソン郡となった地域に元々住んでいたのはウート族(Ute)という先住民である。 かつてコロラド地域のウート族はいくつかの地域(several hands)に分かれて10000人ほどの人口があった。 スペイン人が初めてこの地域を通ったのは400年以上前である。財物を求めてカリフォルニアへの道筋(ルート)を探すのが 目的であった。スペイン人が馬という動物をウート族に売ったのは このときが最初である。 ウート族は(白人側から見ての話だが)比較的に穏やかな種族であるとみなされていた。 かれら(ウート族)は早い時期にこの地へやってきた白人たちといざこざをおこすことはめったになかった。

1800年代の初期、マウンテンメン(山師?猟師だろう)と毛皮を獲るためにわなを仕掛ける猟師がこの地域に入ってきたが、 コロラド地域のロッキー山脈は険しいため、そう簡単に毛皮を獲ることはできなかった。 また毛皮の価格が暴落したため、1840年代には、この地域での毛皮の商売は成り立たなくなってしまった。

1850年代に入り、東部と西部をつなぐ鉄道の必要性が高まってきた。 難所のロッキー山脈をいかに超えるか。そのルートについて盛んに議論された。 1853年、議会により、陸軍の技術者たちによるルート探索隊を4チーム作るという議案が承認された。 陸軍の軍人であり、地形学に詳しいジョン・ガニソン大尉が中央ルートを探索することとなった。 当時、ガニソンは41歳で未開地の探索に関してすでに11年の経験があった。

1853年6月、探索隊はカンサスのフォート・リーヴェンワース(Fort Leavenworth)に向けて出発した。 9月2日、コチェトパ峠(Cochetopa Pass)を越えた。越えたところで(眼下に)広大な土地が目に入り、 かれらは大いに喜び意気揚々としていた。すくなくとも、フォート・キャニオン湖に到着するまでは。 そのフォート・キャニオン湖をその一部としてキャニオン川が流れているのだ。
(湖の上流と下流は左右から高い山がせまり、深い谷−the huge crevice:深いクレバス−となっているのだろう) (While looking for a way to bypass the huge crevice)探索隊は、この深い谷(両側が高い断崖となっている裂け目:クレバス) をバイパスする(向う側に渡る)方法を探していたのだが、かれらが見つけたのはブラック・キャニオンと呼ばれている 深い谷(急なV字形の谷)であった。断崖の高さは2500フィート(750m)もあり、裂け目には荒れ狂う水が流れていた。 探索隊は、峡谷を越えるのをあきらめ(フォート・キャニオン湖でなく)フォーク湖を渡って向う側に行くことにした。 この湖を越えるのも大変な困難をともなったのであるが。 フォーク湖を渡った向う側(西側)には起伏の多い荒野が続いており、 ガニソンは、この地域に鉄道を通そうとするのは現実的ではないと考えた。 【注】後に彼の判断は間違っていたことが証明された。 1880年代になり、D&RG鉄道がガニソン郡のブラック・キャニオンを通過するルートに鉄道を通したのだ。

1853年10月、ガニソン探索隊は災難にみまわれた。ユタのグリーン・リバーという地域でパイウート族 (Paiute Indians)に襲われたのである。襲撃の際、ガニソンと8名の者が殺された。 生き残った者たちは探索を続け、1854年に任務を完了した。

1850年代後半になると、金鉱目当ての者たちがガニソン郡に入り込み始めた。 白人が増えるにしたがって、ウート族(the Utes)との間に摩擦が起き、何人かの白人が殺された。 その結果、多くの白人たちがこの地を去った。 しかし、1860年代から1870年代にかけて、一攫千金を求めるのでなく、堅実に将来を考えて働く者たちが残ったのである。 そして、1870年、現在の採掘地であるショフィールド(Schofield)に近い場所で炭鉱が発見されたのである。

1873年、デンバーのジョン・パーソンズ博士(Dr. John Parsons)はガニソンには鉱物資源が豊富にあると確信するにいたった。 同年、パーソンズ氏は30名からなる探索チームを組織しガニソンに乗り込んだ。 探索チームの一員にシルヴェスター・リチャードソン(Sylvester Richardson)という地質学者がいた。 かれは夢想家であり漂泊者でもあったが、かれにとってガニソンは希望の地だったのた。 後に、かれはガニソンという町の創始者になったのだ。

1874年4月、リチャードソンはデンバーから20名の移住者を連れてガニソンの地に向かった。 旅の途中、ひどい吹雪に遭い、何人かデンバーに引き返した者もあるが、残りの者たちは旅を続け、 現在のガニソンの地へ到着し、それぞれに土地を分け、キャビン(丸木小屋)を建て始めた者もいた。 1874年−75年にかけての冬は厳しかった。リチャードソン以外は全員、 ガニソン以外の土地に移動するか、デンバーに戻って行った。

1875年、リチャードソンは新しい入植者を探しにデンバーに行ったが、かれと一緒にガニソンに来た者は3人だけだった。 その3人の内の2人がアウトカルト兄弟(the Outcalt brothers)、ジョンとウィリアム(John and William)だった。

1876年、コロラドはアメリカ連邦に加盟し、ガニソンはガニソン郡となった。 1879年、この年はこの地域が膨張発展した年である。 鉱山労働者、投機家、冒険家、いろいろな者たちが富を求めてコロラドにやってきた。

1880年までには、ガニソンヴァレー(ヴァレーとは、谷間にある平地、川の流域)には牧畜業が確立されていた。 なぜ牧畜かというと、年間の降雨量が11インチしかなく、標高が高いために穀物の成育期間が短いためである。 この土地で効率的に家畜を飼育するためには、馬や牛に食べさせる飼料を効率的に生産しなければならない。 家畜の飼育・飼料の生産の妨げになるものを土地から取り除き、土地を平らにし、川やクリーク(支流)から水を引いてくる必要がある。 灌漑設備を整えるということだ。

1880年代の後半、ガニソンという地域が繁栄できたのは鉄道のおかげである。 2社の鉄道会社がガニソンに乗り入れたからである。両方とも狭軌鉄道であった。 1880年に、The Denver and Rio Grande (later the D&RG Western)が、 1881年に、the Denver, South Park and Pacific (DSP&P) が乗り入れた。 しかし、鉄道はじきにガニソン地域を通らなくなってしまった。 The D&RGW(狭軌鉄道)は約70年間、まず第一に人と農産品の輸送をし、 その他に鉱物と石炭の輸送も行った。 第二次世界大戦の後、鉄道はしだいにトラック輸送に取って代わられるようになり、 1955年、The D&RGWはガニソン地域での業務を完全に終わらせた。

【注】The D&RGWの路線は、エスティーランチを通ってガニソンからクレステッドビュート(Crested Butte)まで 通っていた。また、The DSP&PとD&RGWの鉄道の路線は、レ・ヴァリー・ランチを通ってガニソンからサリダ(Salida) まで通っていた。

1章:ガニソン郡の歴史 2章:John B. OutcaltとOutcaltの家 3章:エスティーランチ

2章:John B. Outcalt とOutcaltの家
1880年代のジョン・B・アウトカルト
火事での消失をまぬがれた写真.
ジョン・B・アウトカルトと弟のウィリアム(John B. Outcalt and his brother William)は、 ニュージャージーのブランズウィックから来た。 ジョン・バーデット・アウトカルトは1845年11月18日、6人兄弟姉妹の長男として生まれた。 彼は成長するとまず東部で造船技師、大工として働いたが、1870年、西部へ行くことを決心する。 道具箱を持ってデンバーに着いたとき、かれのポケットには27セントしかなかった。 ガニソンヴァレーにあるリチャードソンの入植地(開拓地)に入ったのが1875年である。 それまで大工として働いた。

(Outcaltの家・・・と書いたが、Homesteadとは、土地と住む家、
納屋など付帯建造物を含む全部をいう。家屋敷という。)

1875年、ジョン・アウトカルトと弟は、ガニソン(の町)からガニソン川を南東に沿って3マイルに ある土地に入植した。 ジョンは灌漑設備を作り、ほどなく、高地で育つ上質の牧草(マウンテン・メドウ)と 各種の穀物の栽培を始め、所有地を広げ続けていった。
1880年、土地の所有権を確定させるための書類にサインをした。 1881年、The Denver & Rio Grande railroad(鉄道会社)に、 自分の牧場の北東の縁に荷積み用の施設(引き込み線か?)(a loading spur)を作ることを納得させた。 ジョンが線路の費用(引き込み線の線路、敷設する費用ということだろう)を提供し、 荷積み用の施設(The spur)も建設した。 彼は施設をHay Spur(ヘイ・スパー)と呼んだ。 アウトカルトが最初に作った家.後に豚小屋として使われた.
毎年、貨車いっぱいのヘイ(乾草)が800貨車分もこのヘイ・スパー から出荷された。その他、地域のランチで生産されたポテトや野菜類も貨車いっぱいにされて出荷された。 これらの乾草と食料は、第一に、クレステッドビュート地域のミュールの飼葉、鉱山労働者の食糧として出荷されたのだ。 (ミュールとは雄ロバと雌馬との子)

ジョンは多くのことを成し遂げた。それ故、彼はガニソンという地域で伝説的人物となった。 ガニソンに来てまず、ロス・ピノス(Los Pinos)・インディアン居留地で大工として働いた。 そこにいた先住民であるウート族(The Ute)の人たちは、かれらと一緒に働いたことのある白人たちの中で、 ジョンが最も信頼にたる人物であると認めたのである。 アウトカスト家の言い伝えによると、ジョンは何度もウート族の友人に命を救われている。 また、ジョンはウート族の族長、チーフ・オーレイ(Chief Ouray)の良き友人だった。

ジョンの娘のヴェヴァレラ(Vevarelle)は、自分の父親はデンバーにある高級ホテルであるブラウン・パレス・ホテルにある 螺旋階段を作った大工の1人であると自慢げに言っていたそうだ。

彼はパラゴン・スクール(the Paragon School)の建設に貢献した。その学校は今もガニソンの町の東のはずれにある ガニソン・パイオニア・ソサエティー・博物館の敷地内に建っている。学校を建設するにあたり、持ち前の造船技術を生かして、 教室を船の操舵室のような作りにするなど、 凝ったデザインにした。学校には地域に点在する牧場から15−20人ほどの生徒が通った。 建設当時はアウトカルトの家(Homestead)から北へ1.6kmほどのガニソン川のほとりにあった。

1888年、ジョンは、フローレンス・A・ジョンソン(フローラ)と結婚し、妻と二人で4人の娘を育て上げた。 その4姉妹とは、1890年1月1日生まれのラモナ、1894年12月25日(クリスマスの日)生まれのフェルンツェラ、 1896年10月20日生まれのデルシー、1902年9月16日生まれのヴェヴァレラである。 ラモナはインフルエンザに感染し1919年に亡くなった。 ジョンは1927年に亡くなった。フローラが亡くなったのは1936年。 世界恐慌の只中であった。アウトカルト牧場は残った子どもたちに分け与えられた。

1章:ガニソン郡の歴史 2章:John B. Outcalt とOutcaltの家 3章:エスティーランチ

3章:エスティーランチ
ジョンとフローラが亡くなり、3人の娘が牧場を分割相続した。 最年少のヴェヴァレラが牧場の中心部分を相続し、後の2人が残った部分を相続したが、2人はすぐに手放した。 ヴェヴァレラユージーン・エスティー(Eugene Esty)と結婚したので牧場はエスティーランチと 呼ばれるようになった。2人はリチャード、バーナード、ラモナという3人の子どもを育てた。 2人はエスティーランチで牧草と穀物の生産を続けた。 ユージーンは第一次大戦に従軍したヴェテランである。1947年に亡くなるまで、健康に問題を抱えていた。 ユージーンの亡き後も、ヴァヴェレラは、何度もの苦しい時期を乗り越え牧場を維持し発展させてきた。
1955年、鉄道会社の業務は完全に終わった。
クレステッド・ビュートの地域にあった炭鉱も閉鎖され、 エスティーランチの敷地内を通っていたThe D&RGWの線路も撤去されたが、 線路が敷設されていた部分(The original grade)は牧場内の通路として使われている。

ヴァヴェレラは再婚することなく牧場を維持し続けた。 父親のパイオニア精神を受け継ぎ、仲間の牧場経営者ら(ランチャー)の主張を申し立てるべく政治的にアクティブであった。

復元された1880年代の鍛冶工作室

1985年 ヴェヴァレラ・エスティー 83歳
牧場経営者にとって不利な議案が提出されれば、自分たちの代弁者や議員に対して意思表示をするように仲間の 牧場経営者らに促すのである。 1971年、ガニソン商工会議所はヴァヴェレラを「ランチ・オブ・ザ・イヤー」に推した。 1987年、彼女は仲間の牧場主らと日本、香港、韓国に出かけた。 アジア各国の牧場経営者に米国製の穀物や飼料を知ってもらうための旅であった。

彼女はエスティーランチの運営を続け1994年に手放した。 1999年97歳で亡くなる少し前まで、かつて自分の牧場であったエスティーランチに住み続けた。

1994年から現在に至るまで、エスティーランチは常に改善、復元を続けている。 鍛冶工作室、馬小屋など、1800年代後期に建てられた建物は完ぺきに復元されている。
参考文献・資料元提供元
Historic photos courtesy of Stanley and Suzanne Esty
Gunnison Country Times newspaper in Gunnison, Colorado
Gunnison County Public Library in Gunnison, Colorado
Gunnison County Pioneer and Historical Museum
Duane Vandenbusche, "The Gunnison Country," B & B Printers, Gunnison, CO, 1980.
Social Security Death Index
1880 United States Federal Census
1930 United States Federal Census
Directions to Esty Ranch Properties
(エスティーランチ事業体の位置関係)
エスティーランチ
Esty Ranch



●エスティーランチ
ガニソンの中心で国道50号(トミチ・アヴェニュー)とコロラド州道135号(メインストリート)が交わる。 コロラド州道135号を北へ1.3マイルのところにCrangor Hill Ski Areaのサインボードがある。 サインボードを過ぎたら右折(東へ)。 曲がったらすぐに左へ曲がり3マイル進む。AmeriGasが左に見える。 郡道10号は右側である。そこを右折して郡道に入り1.9マイル走ると右にカーブしはじめる。 その左側にエスティーランチの門がある。

 レヴァリーランチ   ヴェイダーランチ
LeValley Ranch    Vader Ranch
●レヴァリーランチ
ガニソンの中心で国道50号(トミチ・アヴェニュー)とコロラド州道135号(メインストリート)が交わる。 国道50号を東へ8マイル。

●ヴェイダーランチ
ガニソンの中心で国道50号(トミチ・アヴェニュー)とコロラド州道135号(メインストリート)が交わる。 国道50号を東へ7.5マイルの地点でコロラド州道114号に入り南へ1.7マイル

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