トム・キルティ1999のレポート
(by Camille Jackett . New Zealand)

2003 オーストラリアの旅  The Tom Quilty  トップ  エンデュランス・トップ

トム・キルティ(1999)のレポートに Terry Woods がでていたので参考までに。
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Terry Woods が2003年 OsamiのShahzada出場に際し、サポートしてくれた。
Ron Males が2003年 OsamiのYengo 80km出場に際し、サポートしてくれた。

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(付)1999年、安永美登里が出場し軽量級で優勝しています。安永大介は1997年に、
   軽量級で優勝しています。Terry Woodsは1997&1999に総合優勝しています。

1999年6月12日、第34回全豪大会(トム・キルティ160km)が タスマニアにて開催された。タスマニア州での開催は3回目である。 その週末に向けて、Deloraine という町は一大観光地と化した。 この年の大会はFEI公認となり、FEI規則による国際大会となった。

各国から選手団が訪れ、外国の選手のうち4選手は貸馬での出場であった。 その4選手とは、安永美登里(日本):乗馬はBremervale Justice、 Richard Cook(USA):乗馬はClarendon Dynska、Dato Kamaruddin(マレーシア) 乗馬はInshallah Select、
David Marshall(NZ):乗馬はSt Albans Impressive。

ホスピタリティはどこと比べてもひけをとるものではない。 バーには、エンターテイメント、スープをサービスするところ、ストロベリークレープや クリームの入った”Deloraine Culinary decadance”をサービスするところ、などがある。 食堂となるテントには、大会の期間中、各種温かい料理を提供する屋台が並んだ。 これらは、町を訪れる人々を歓迎するために、その地域のクラブの人達が用意し たものである。大会本部は、ほとんど一日中オープンしており、獣医への相談事や、 大会役員等へのコンタクトなど、いつでもきるようになっている。 こういった体勢により、温かくフレンドリーな雰囲気に溢れている。

キャンプファイヤーの回りには人々(キルティ・ファミリー)が集まってくる。 旧知の人達は旧交を暖め、新顔の人達は、この機会に互いに友となる。 これがこのスポーツのユニークなところであるが。こーいったことが、 この年はとりわけ素晴らしかった。 受け継がれたエンデュランスの精神がここにある。 年月をかけ愛馬を自分をトレーニングするという 長い道のりを経てキルティ出場という地点まで到達し、さてキルティを完走しようとしている 新顔を見つけ、手助けしようと「てぐすね」しているのである。 「競う」ということはそっちのけで、友情や相互理解という雰囲気が キャンプに満ちているのである。

160kmのコースは、34km、36km、37km、33km、20kmと5分割されている。 このコースは険しく難しいコースと言われているが、今までキルティを何度も経験して いるライダーが走ったコースのなかでも、もっとも厳しいコースではないかと思われる。 氷点下にもなる厳しい条件とあいまって、この大会でキルティのレコード・タイムを 破ることはないと思われつつ、何人かのオーストラリアのベストライダーを含む 122人がスタートを切ったが、彼らは実にガッツのあるところを、世界のベスト ライダーと同じく素晴らしいライダーであることを証明した。

キルティにおいて、スタート時の興奮状態を言葉で表すことはできない。 そのなか、事故など不幸な出来事もなく、多くの馬をスタートさせたということは、 大会運営に与かった人々の功績である。人馬は「bitumen road」を数km走り、 「Golden Valley」・・・タスマニア・プランテーションと言う森林地帯・・・に向かう。 凍える天候のなか、見送るクルーや家族を残し、人馬は暗闇の中へ消えて行った。 残った者たちは寝ることもなく、最初のチェックポイントを誰が一位で通過するか、 そのアナウンスを待っている。このアナウンスは、誰もが予想していたよりも ずっと後になってからであった。というのも、先頭集団は、予想されていたより ゆっくりしたペースで沼地帯を通過しており、本部キャンプの「タイム係テント」 では、いったいどーしたのかと大騒ぎになっていた。

凍えるような条件のなか、第1レグを走りきり人馬がゴールしてきたが、 この天候条件が馬に悪影響を与えているということがはっきりした。 多くの馬の腸音が弱く、まったく聞こえない馬もいた。 獣医検査のやり方は「vet-gate-into-hold」であった。 キャンプには、病院がセトアップされていたが、その施設を使用したのは ・・・ゲガのため2頭、2頭が代謝異常・・・4頭のみであった。 競技開始前夜のミーティングで心拍数は65以下から60以下に変更された。 Dr.Roger Blackwellが獣医委員長でDr.Bill Harbinsonと共にコースで待機していた。 獣医は12名参加し、獣医検査もスムースに行われ、何ら問題はなかった。

第1レグが非常に厳しかったことで幸い(強敵が脱落したということで)したこともある。 Brooke Sample(彼の第二の故郷であるアラブ首長国連邦UAEから休暇でAUに戻っていた) は、Aloha Zaribaに乗っていたが、筋肉痙攣?(pulled muscle)のためハ行し失権。
June Peterson(馬はセン馬のLentara Park Jobe)は馬輸送中のトラックとの事故で 腕を骨折し棄権。しかし、さらなるショックがキャンプにもたらされた。というのは、 Bob Sample(乗馬はJakassa Kamil)・・・凍傷にかかる危険を冒して彼のトレードマークである ”T−シャツ”を着ていた・・・が事故に会い、第2レグ以降、姿を消したのである。 Dale Cooper(乗馬はInnesview Desert Mhasa 1998年のキルティ勝者)は、 第2レグの後、ハ行により失権。
It was starting to sound like "Legends of the Fall", ....... 『は〜て何と訳すか・・・、聖書伝説にある人間の堕落といった様相になりはじめてきた。・・・とでもいうところかな?』 さらに、人気者のPeter Cole(馬はCrystale Fire)は、沼地にはまり込んで落鉄してしまった。
Peterは、道に迷ってなかなか到着しない装蹄師を何時間も待ったそうである。 また、先頭集団からずっと遅れ、荒野に取り残されたという経験は初めて。 それはそれで楽しい経験であり、初めてキルティに出場した人たちを助けながら 完走を果たした。

しかしながら、今までにキルティ・チャンピオンになったことのあるライダーたちは 先頭集団のなかに健在である。Terry woodsとPeppersfield Nambucco(1997年 チャンピオン)は第2レグを先頭で走り、僅差で追うのが、Shannon Parkerと Stanpark Ginnis(1998年12月ドバイでの世界大会で10位)。 Ginnisは3月にAUに帰ったばかりであった。むろん、ShannonとGinnisは、キルティ1998で最初にゴールラインを超え(line honour)、さらに軽量級で優勝している。 安永美登里も遅れてはいない。この3名が先頭集団で、ペースメーカーとなっている。

Ron Haigh(馬はKynnum Park Sadia)、Martin Parker(Shannonの父、馬はJoseph) の2名が先頭に追い付き、Terry、Ron、Shannon、美登里がリードしつつ最終レグ のゴールに向かっていった。しかし、Brian Keep(馬はDoran Park Zatory)、 Mark Johnson(馬はPiabun Budjar)、Paul Brown(馬はCawarral Falcon)の3名が 常に後から先頭集団を覗っていた。

最終的に優勝は、Terry Woods と Ron Haighであった。タイムは11時間11分。 ギャロップで駆け抜けたのではなく、両者は手をつないで、余裕綽々といった 風情でフィニッシュラインを越えた。ギャロップで走ってきたら、 どちらか1人、あるいは2人とも、(優勝)バックルを失うということもあり得たのである。 というのも、最後の500mは沼のように深いどろ道だったからである。 いくぶんか経験不足であるとか、思慮に欠けるところのあるライダーなら、 早いスピードで駆け込んできて、優勝を逃す、あるいは完走を逃す、 というリスクを犯していたかもしれない。 馬が獣医検査に連れていかれるまでの時間はずいぶんと長く感じられたが、 獣医検査では2頭とも余裕の合格(thumbs up)であった。

ゴールド・カップは、意気揚揚、誇り高く、優勝を分かち合った2人の男の手に。
Terryは中量級の優勝(彼はレース中の落馬で肋骨を折っていた)、 Ron Haighは重量級の優勝である。 Ron Haighは重量級で1997、1998と優勝しているので、 1999年の大会での優勝により3回連続優勝(Hat trick)を達成した。

この2人のゴールする姿は実にスポーツマンシップ、 ホースマンシシップを体現したしたものであり、 オッジー・エンデュランスの何たるかを表したものであった。 人馬が続々と帰ってくるなかで、次にゴールしたのはShannon Parkerでる。 今大会では、Shannonは中量級で出場し、総合順位は3位。 中量級としては11時間45分で2位。 ShannonはAUで最も若いライダーの1人であり、AUを代表して3つの 世界大会へ出場しており、1998年の世界大会で10位となったばかりでなく、 世界で最も注目される(?)(Preferred)ドバイ大会で4位になっている。 Shannonに続きゴールしたのは4位のBrian Keepで12時間12分。 Brian Keepに続きゴールしたのは5位の安永美登里である。 彼女も1998年のドバイ大会に日本を代表して出場した。 彼女は今大会で12時間25分、軽量級で1位、総合で5位。 完走後、彼女の乗った馬の状態は素晴らしいものであった。

着順以外の記録達成については、1人のライダーによる最多完走、 Ron Males の18個目の完走バックル獲得がある。 Ronの騎乗馬はRalvon Zoomであるが、この馬は1998年のキルティでも 完走している。Ronは今までに1度も失権することなく、これら18個の バックルを獲得している。 この記録達成は正に、この”エンデュランスの父”によるホースマンシップ の体現である。今回のキルティ完走はZoomにとって2回目のものであり、 完走後のZoomの状態も素晴らしいものであった。

結果を詳しく知りたい人のために・・・ トップ10のうち、クイーンズランドが5人馬、タスマニアが2人馬、NSWが1人馬、 ビクトリアが1人馬、外国選手が1人馬。 トップ10の馬のうち1頭が牝馬(Warrondi Marissa、タスマニアのClaude Filleul騎乗)で、 他は全てセン馬である。

今大会には西オーストラリア州を含め全豪各州から多くの人馬が出場したが、 大多数はタスマニアの人馬であった。タスマニアの人馬の完走率は素晴らしく、 チーム賞も獲得した。

4人の外国人選手が貸馬で出場し、うち3人が完走した。これは誇りにすべきことである。 貸馬での出場で、その馬に初めて乗る(大会前日に乗る馬と顔を合わせたという選手もいる) ということでも、その実績に何ら変わるところはない。

4人のジュニア・ライダーが出場し完走した。 可愛い双子のKristie McGaffinとNaomi McGaffinは13時間3分という素晴らしいタイムでフィニッシュした。 この2人はCastelebar teamの一員としての出場であったが、チーム全員が、白のジョッパーに茶色でCastlebar Stud のロゴをあしらった黒のジャケットを着ていて、ベスト・プレゼンテッド・チームに選ばれてもおかしくなかった。 他の2人のジュニアは、Steven Goochが17時間39分、Adam Vassailoが17時間42分であった。

出場した馬のうち牡馬は9頭(うち5頭は獣医検査で失権(4頭がハ行、1頭は心拍数)であったが、 1頭は『最後にフィニッシュラインを越えるという栄誉』を与えられた。 騎乗者はGaire Blunt。馬はTerry Woodsの半血の牡馬、Romeoである。 タイムは20時間36分。フィニッシュラインを最初に越えた馬とフィニッシュラインを最後に超えた馬、これら2頭は共にTerryの持ち馬ということである。総エントリーは122頭で、52頭が完走できなかった。この中には8頭の棄権(1頭はスタート前に、残りのほとんどはハ行によるものである)が含まれる。完走率50−60%というのはキルティにして普通の数字である。また、タスマニアにおいて100頭以上の出場というのは素晴らしい数字である。

ゴールした馬は獣医検査を受けた後、完走できた馬も失権となった馬も全て、薬物などの検査(スワブ・テスト:swab test)を受け、 その後、大会実行委員会は結果報告のなかで、今大会において『薬物の使用がなかった(Drug free)』ことを喜びと共に報告した。

(司馬注)
馬のスワブ・テストというのは、使用が禁止されている『物質』が用いられていなかったかどうかの検査でる。 その『物質』とは、例えば、鎮痛剤やスレロイドといったものである。しかしながら、バレリアン(Valerian)は、 馬を落着かせて扱いやすくする効果がある。また、同じように、ある種のハーブは馬を落ち着かせたり、 反対に活発にさせたりする効果があるが、こういった類のものも、スワブ・テストによって検出される。 というわけで、スワブ・テストは、使用が禁止されている『薬物』の検査をするという目的だけでなく、 馬の運動能力を増進させるとか、他の『薬物』の使用を隠す効果があるため使用が禁止されている 『物質』を検査するという目的もある。例えば、樟脳(Camphor)を(採血された)血液に加えると、 検査してもステロイドが検出されなくなってしまうので、樟脳は使用が禁止されている『物質』である。
(バレリアンとは)
ハーブの一種である。和名はカノコソウでオミナエシの類の宿根草である。
その白・ピンク・赤の根から作る薬(鎮痛剤)のことも言う。

表彰式が始まる際、雨が降り出してきたので、まずベストコンディションド・ホースの表彰から始まった。 Terry WoodsのPeppersfield Nambuccoが中量級で、Ron HaighのKynnum Park Sadiaが重量級で、 安永美登里のBremervale Justice(すばらしいコンディデョンであった)が軽量級で、それぞれ表彰された。 この賞は騎手、トレイナー、そして馬にとって誇りにすべき賞である。実際、優勝馬が同時にベスコン賞を取るということはめったにないことである。表彰式が終れば、後はキルティ参加者によるキルティ・パーティーを残すのみである。バーにはいろいろな飲み物が用意され、鹿肉やワラビーのミートボールなど食べ物もすばらしい。夜が明けるまで僅かな時間である。バンド演奏も始まった。

コメンテーターでありバックル授与をする役の、Barbara Timms が、優勝カップに隠れて、シャンペンをガンガン飲んでいるのを見つけた。 実際、パーティーはバカ騒ぎである・・・Ron MalesとKeith Suttonであるが、危険な2人である。牛を刺す串を手に、 娘が近くを通りかかるのを狙っていた。

こんな騒ぎが夜まで続くのである。美登里は、きれいに縁取りされたプリント(?)、ボディーが木でできた大きな時計、ブラックウッド製のテーブル一式を含む、多くのトロフィーを受けとって、あっけにとられていた。このトロフィーを家に持ち帰るための運賃のほうがキルティのエントリー料よりもずっと高くつくことであろう。

我々は、Deloraineを評して『Jim Beamが飲めない町』と言うことになった。というのも、エンデュランス・ライダーはこのJim Beamが大好物なのである。町にあるバーは、キルティのある週は普段の3倍のストックをしなければならないほどであるが、 それでも、13日の夕方までには全て飲まれてしまっているのである。キルティ開催に携った人たちは、やれやれ全て終わった、実際、雨が降らなくてよかったと(Laurie Nicholはお祈りしていた)、安堵しながらパーティーを楽しんでいた。 川が氾濫したときのことを考えて、避難プランも作ってあった。Kosovars(コース全体がある場所かな?)はチャレンジング(コースは難しい地形でいいのだが、という意味かな?)なのだが、ショーグラウンド(showgroundって表彰式やパーティー会場となった場所か?)は低い位置に設営されていたからである。

夕食まで残ったのは400名であるが、さらに夜遅くまで残ったのはタスマニアの人たちである。 タスマニアの人たちは足腰立たなくなるまでダンスをして楽しんだ。 メインランドから来た人たちは、夜遅くならないうちに馬を馬運車に乗せフェリーに向かった。 顔見知りの友達同士、新しく友達となった者同士、それぞれ別れのときとなったが、 彼らは皆、2000年、QLDのBoonahで開催されるキルティのことを話し合っていた。

ニュージーランド代表は、南島のHolly Farmから来たDavid Marshallであった。彼の馬がハ行してしまったので、 レース前日に借り受けた10歳の牡馬、St. Albans Impressiveに乗り、143kmまで完走した。 この馬は、キルティ、シャザーダで完走している馬で、よく訓練されていたが、このときは、スタートしたときから、 ”なにか完璧でない”ということは明らかであった。というわけで、最終レグ17kmを走ることができなかった。 Davidにとっては残念なことであったが、彼はこの経験も貴重なものと受けとめている。 彼は、1999年のシーズン中、オーストラリアの大会にニュージーランド代表として多くのレースにでることになっている。 また、彼が自分の馬で、2000年、Boonahで開催されるキルティを走っている姿を見ることになるであろう。

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