津別ホーストレッキング研究会 

1頭の馬を愛して
For the Love of a Horse
2009/8 司馬 ドクター・ミラーTOP
Natural Horsemanship ExplainedはAmazon.co.jpにあります。
Natural Horsemanship Explainedの目次は[ここ]にあります。
レスター(Lester Buckley)も、エイタンが少年の頃、 西部劇映画を見て将来を決めたように西部劇に影響されたのだが、文化的、歴史的、地理的に、 その背景は全く異なる。

レスターはニューメキシコ州のラヴィングトン(Lovington)で生まれた。 彼が生まれてすぐ、両親はテキサスのデズデモーナ(Desdemona)にある小さな牧場に移った。 6歳で孤児となったが叔父と叔母の養子となり彼らに育てられる。両親は小さな牧場を経営しており、 レスターは農業が盛んな環境の下に育った。

8歳の時、両親に連れられて米国ツアーでテキサスのフォート・ワースに来ていた スパニッシュ・ライディング・スクールを見た。レスターは『いつか、馬とあんなことができるようになりたい。』 と思ったのである。エイタンと同様、彼も少年の頃の夢を実現した。彼が愛した1頭の馬がその道を切り開いた。

Sul Ross Universityに籍を置いた。その大学はテキサスにある牧場の子供たちに人気の学校であり、 学校にはカレッジ連合のロデオチームもあった。学生時代にレイ・ハント(Rey Hunt)のクリニックに行き大いに触発され、 『これこそ生涯続けたいものだ。』と決心する。以後、レイ・ハントをはじめナチュラルホースマンシップのクリニックには できる限り参加し彼らのやり方を学んでいった。

カレッジを卒後しテキサスのデントンにあるRex Cauble’s Cutter Bill Ranchで働くことになる。 そこでは新馬を調教(colts starting = colts breaking)し、それらの馬を牛追いに慣らせるという仕事をした。 その後、カナダ西部にパックステーションを所有しアウトフィッターをやっている男の下で働いた。 その彼は冬はテキサスに来て新馬の調教をしていたが、その新馬というのは5歳―10歳ほどで、 それまで荒野を駆け回っていた野生馬である。丸太でできた丸馬場で、 その年齢になるまでオオカミの跋扈する荒野を駆け回っていた馬を調教するというのはなかなかの大仕事であったが、 それまでの経験が大いに役に立った。

その後、7年間、ニューメキシコのテキサスでカッティングホース・トレイナーであるWilly Richardsonの下で働いた。 そこでカッティングホースのショーを始めたがレイ・ハントのクリニックにも参加し続けていた。 その後、カレッジ時代の友人Jimmy ScuddayとテキサスのThe King Ranchへ行く。そこでは数ヶ月間をかけ、 ナチュラルホースマンシップのやり方で膨大な数の新馬の調教をした。その後、新馬調教のためにハワイにある 有名なParker Ranchに向った。

King RanchもParker Ranchも古くからある大規模な牛の牧場で、常時、牧場で使う新馬調教をしていた。 当時ホースマンシップの革命(Natural Horsemanship)はすでに起きており、他の多くの大規模の牧場と同様、 “従来の荒馬慣らし的”な者よりも、より馬にやさしい近代的な技術を持ったホースマンを雇うようになっていた。

3年後、Scuddayは結婚し、レスターは一人となったが馬の調教を続けていた。レスターは4年間、Park Ranchで働いたのだが、 その間、大けがをしたこともある。ある雌の若馬(彼女にとっては初めて人に乗られるのだが)と人馬転し 壁の下に挟み込まれたしまった。レスターは馬の下敷きになり馬はもがいている。他に人はいないし、夜も遅い時間であった。 幸い牧場を訪ねてきた人に発見され助け出された。腰の脱臼、バイ菌が体内に入り、 腕を切断かということであったが抗生物質のおかげで腕は切らずに済んだ。

病院を退院し、その冬はあまり馬に関わらず過ごしたが、翌年には復帰し、馬の群れを管理する職長(horse herd foreman)となる。 牧場には600頭以上の馬がおり、レスターは繁殖と調教の責任者となった。

レスターに会ったのは彼がハワイにいた時である。彼のたぐいまれな技量を見て、 『一緒にクリニックを開かないか』と誘ったのが、その後の長い付き合いの始まりである。 20歳の中頃のパット・パレリの天才性を見抜いたのと同様、レスターを一目見て、その技量のすばらしさ、 その才能に気がついたということに誇りを持っている。私には彼らのような技量はないが、彼らのすばらしさを認識すること 理解することはできる。 レスターはテキサスへ戻り、数年間、主にアメリカン・ペイント・ホースのカッティング・トレイナーとして働いた。 その間、Superstakes Reserve Champion Paint Cutting Horseのタイトル、Top Ten Honor Rollのタイトルを取った。

2001年、レスターから電話があった。彼の馬 Colonel Winは14歳、足腰、聴覚はまったく健康だが、 耳が聞こえなくなっているということであった。彼は『Colonel Winは白内障なのだが、目の手術を受けさせたい。 最高の獣医を紹介してほしい。この馬は私にとってかけがいのない存在であり、必要とあらばヨーロッパまで連れていく。』 と言う。私は5人の獣医眼科医に電話した。5人が5人とも、Texas A&M Universityには必要な人材、 経験、設備が整っているとのことであった。レスターはColonelを大学に連れて行き、より悪い方の目の手術を受けさせた。 時にはあることだが、残念ながら手術は失敗に終わり片目は失明した。

しばし後、2003年、レスターは愛するColonelと共にハワイに戻った。レスターからまた電話がかかってきた。 彼は『Colonelは片目を失い、もう片方も見えなくなるだろう。彼はまだ健康だし何かしたがっている。 彼に乗ってカッティングはできない、レイニングもできない、ローピングもできない。しかし、その彼にできることを思いついた!』 と言う。それは何だ?と聞くと、 彼は「ドレッサージュができる。」と答えた。

『レスター、片目を失い、残る片方もじき見えなくなる馬をドレッサージュホースとして売ろうというのか?』 と言うと、彼は『売るだって、まさか、私は彼を愛しているんだ。私がドレッサージュを習うのさ。』 私はテキサスのカウボーイがドレッサージュの服装に身を包んでいる様子を思い描こうとしつつ、ほんとうか?と聞いた。 『ドレッサージュをどこで習うつもりだい、ハワイで?』彼は『いや、ドイツでのレッスンを予約したよ。 何人かに聞いたところドイツのVechta and Warendorfが一番いいと言うので、来年、2週間、Vechtaに行ってくるよ。』と言った。

ハワイへ戻ってから彼はMaryと結婚した。旦那をボートの事故で亡くした可愛い未亡人である。 Maryは彼と一緒にドイツへ行ったが、レスターがカウボーイハットにジーンズ姿で現れると、くすくす笑いが聞こえた、と言っていた。 しかし、ある繁殖牧場(breeding farm)のオーナーがレスターの騎乗ぶりを見て言った。 『あなたは私が今まで見たなかで一番の乗り手だ。』どの土地に行っても、どんな帽子を被っていても、 どんな馬に乗ろうとも、ホースマンはホ−スマンってことじゃないかね。


2週間コースも終わろうとしていたある日、ある人がしまつに負えない大きな温血種の馬を馬運車に乗せようとしていた。 よく目にする光景が続いたのだが、しばらくして、物静かなレスリーは、手を貸しましょうか?と申し出た。 20分ほどでその馬はレスリーの指示に従い、おとなしく馬運車に乗ったり降りたりするようになった。 その後、インストラクターはレスターが来年も来るかどうか尋ねた。レスターは、ええ、来年の2週間はすでに予約しました、 と答えた。それを聞いたインストラクターは『その時、さらに2週間延長して滞在してくれないか? グランドワークの2週間コースをやってもらいたのですが。』と言った。

2006年、レスターはふたたびドレッサージュの生徒としてドイツにいたが、グランドワーク、問題行動の解消の仕方、 ウエスタンホースマンシップを教える側でもあった。レスターはドイツ馬連のドレッサージュとジャンプの クラス4とクラス3の資格を得た。2007年には、international trainer/instructorの資格も得た。






真のホースマンなら、自分とは違う馬術方式や文化を持った者を見たら、それを拒絶するのでなく、その機会を捉えて、 それらを学び、自分の知識をより深いものにするものである。ヨーロッパにおいて最も規模が大きく成功しているスポーツホースのブリーダーの一人であるハインリッヒ・ラムズボック(Heinrich Ramsbock)は ウエスタンの馬と馬具を購入し、ナチュラルホースマンシップを学んでいる。レスターとラムズロックのトレーナーは、 互いに教え合っている。Vechtaにある乗馬学校ではウエスタンホースマンシップをカリキュラムに加えている。

2006年1月、レスターのクリニックに参加したドレッサージュとジャンプの両方のジャッジをしている者が英語で以下のように述べた。 『あなたが行っていることはすばらしい。私たちには“これ”が必要だったのです。あなたがまたいらしてくれるのを楽しみにしています。』







ハワイに戻り、レスターは温血種の馬を輸入し、Maryと共にヨーロッパにおいて繁殖の事業も始めている。 Colonel Winは引退し、子供たちにドレッサージュの基礎を教えている。 彼は Esquireという名のハノーバリアンのセン馬と一緒に放牧されているが、2頭は離れられない仲良しになっている。

レスターはエイタンより年若である。これから先、馬の世界が彼の技量、才能、その献身ぶりを認識し、 認めるであろうことを確信している。エイタンと同様、彼は想像力豊かで、新しい概念に対していつも心を開いている。 彼らは習慣や過去に捕らわれないホースマンである。彼らは世の人たちがそれぞれの世界において、 人々を型にはめ込み他を拒絶するように仕向ける・・・頑迷さ、狭き心、それらのものを超えたところにいる。


彼らは馬と共に働く者と馬たちそれら両方の生き方、生かされ方、生きる場をより良いものにしつつある ホースマンシップにおける革命の指導者たちである。彼らはいろいろなホースマンシップの間にある障壁を打ち壊しているのである。このような、 とらわれない心を持ってするならば、ホースマンシップ以外の諸々の人の行いについても、 どれだけ恩恵を被ることができるか計り知れないであろう。

HAWAII HORSE EXPO 2009