目次へ戻る THE SOUL OF A HORSE
馬の心を知る
津別ホーストレッキング研究会

第8章 The Wild Horse Model (野生馬の生活)

われわれの手で用意された自然の放牧地が使えるようになった。放牧地と言っても草原というような草のたくさん生えた牧草地というのではなく、 土がむきだして岩(と石)の多い、まさしくアップダウンのきつい、急勾配の岩場である。しかし、こういう条件のところを放牧地とすることで野生馬の生活を研究することができるのである。 こういう放牧地を用いるということは、実際の野生馬が生きる環境に近いものを得るためである。
われわれの敷地の裏に、このような生産性の低い土地が1.5エーカーあり、これを利用するのがベストであった。 この土地はわれわれのものとなる前から、周囲がチェインの策で囲われており、さらにその内側は安価な電気牧柵で囲われていた。 (1エーカー≒4046u、約1200坪)

そして、その(すでにあった)施設を実際に使う時がやってきた。 しかし心配していた。険しすぎはしないかと。馬たちは気に入るだろうか?岩やごろごろした石が多すぎはしないだろうか? ケガをしないだろうか?みんな同じところで仲良くやっていくだろうか?
まず最初にスクリブルス(Scribbles)が放牧地に放された。【scribble:殴り[走り]書きする】

かれはおとなしい馬だ。みごとなペイントホースだが他者をひきつける魅力には乏しい。 かれはたいてい自分に与えられた空間の隅に1人でいる。何時間でもじっとしている。怠け者というのは控えめな表現かもしれない。 われわれには6頭の馬がいるが、かれがもっともウォ〜によく反応する。 ウォ〜に応えるスピード(つまり停止)がかれがもっとも好むスピードなのだ。 手綱を使うことなどない。ちょっとシット・バック(重心を後ろにずらす)すれば、すぐにブレーキを踏んで、 「止まってもいい?」というのがお気に入りの質問だ。かれに前進を促すと、「そりゃ大変な仕事だ!」と言わんばかりの 反応をし、「ああわかったよ。どうしても進めというなら進もうじゃないか。だけど、あんたはそれがどんなに しんどいかわかっちゃいないね!」という態度なのだ。

かれは今までこういう馬だったから、はじめてこの自然の放牧地に放したとき、わたしはびっくりして、口をあんぐりあけたままだった。 ホルターを外してやると、かれは身をひるがえし弾丸のようにすっ飛んで行った。突っ走り、走りながら後肢を蹴りあげ、頭を振り回し、 思い切り楽しんでいた。こんな彼を今まで見たことはなかった。これはかつてわたしが知っていた馬とは別な馬であった。 かれは10分間もそうして楽しんでいた。わたしはただそこに突っ立って、ぽかんとした顔で、苦笑いするだけだった。

かれは左右にある脳のどこいらかで、「おー、やったー!ついに自由だ!自由だ!」と叫んでいたにちがいないと思った。 そして、しばらくして、トロットで私のいるところへ戻ってきて、かれ独特の、しぶしぶするような仕草で、ありがとう、と言った。 このようにして、スクリブルスとかれの5頭の仲間たちにとって新しい生活が始まったのだ。

ふつう、野生状態の方が飼われているより健康であり、馬にふさわしい環境であり、家畜馬より長生きであると、 ストレイサー博士や、ナチュラル・フーフ・スペシャリストのジェイミー・ジャクソンは言っている。 といっても、飼われている馬たちをすべて自然界に戻してやらねばならないと言っているわけではない。 野生馬は自然界で自らを管理して健康を保っているが、人間が馬を飼っている場合でも、 少なくとも彼ら自身がやっているのと同じように、それに近くなるように、できることは全てやらねばならないということである。 人間や犬のやり方でなく、自然界で野生馬がやっているやり方にならって、それを真似て、世話してやるということだ。 できる限り野生馬の暮らしに近づけてやるのは人間の力(能力・想像力)をもってすれば不可能ではない。

これらの研究、学習を通して、正しい理論は、あるべき姿はこうだということがわかるにしたがって、 キャサリンとわたしは、しばしば、いったいどうしてこんなことが・・・というおどろきの目をしてお互いに見つめあった。 われわれが知ったこと、わかったこと、それらは(今までやられてきたことと比べて)ほんとうにびっくりするようなことなのか。 われわれがおかしいのか、まちがっているのか。こんなに長い間、あまりにたくさんの人びとがまちがっていた、 まちがったことをしてきた、そんなことがありうるだろうか? 単純に考えて、そんなことはあり得ないだろう。

ある日、キャサリンが言った。「だけど、わたしたちも同じように、同じやり方で始めたじゃないの。 わたしたちも同じ所にいたわ。みんなと同じ様に考えていたわよ。」

彼女の言うとおりだった。われわれがこの旅に出たとき、野生馬がまだ存在することすら知らなかった。 5500万年も生き残って存在し続けていることを知らなかった。ほとんどの人たちと同じように、 馬たちは人間の手にかからず、そんなに長いあいだ生き残ってきたということを考えたこともなかった。 当時、ストレイサー博士の書いたものを読んだことがなかったので、かのじょの研究についても知らなかった。 かのじょの研究によると、野生馬の平均寿命は人間に飼われている馬のそれより2倍長いということだ。 単純に、そういう知識がまったく無かったので、応用することなどできなかった。残念なことだが、 わたしたち以外の、馬に関わっているたくさんの人たちについても同じことがいえる。

さて、これらの情報、知識を、今までのやり方や現状に疑問を持っていない人に、これでもか、これでもかと披露したら、えっ、そーなの!と、 目を見開き、口をあんぐりさせるだろう。そういう人のなかには、そんな奇妙なことは聞いたこともないと立ち去る人もいるだろう。 しかし、たいていの人は、、馬たちにすまないと思い、改めようとするのである。 話した甲斐があるというものだ。こういう人たちは扱いやすい人たちである。心のまっすぐな人たちである。 正しい理論、あるべき姿というものが何ものにも優先する、そういう人たちである。

ひとすじなわでいかない人たちはこう言う。 『それはちがうのではないか。家畜としての馬はいろいろな方法で交配されてきて今日の馬になっており、 もはや野生馬と同じ種とみなすことはできない。』この主張は正当とは言えない。その理由は、専門家たちが、 数百万年におよぶ遺伝により受け継がれてきたものがたかだか数世代の意図的な交配により帳消しにされることはないと 言っているということである。こういうがんこ者が自分の主張が正しいと思っている根拠は、かれらの馬が(野生馬とちがって) レイム(肢の故障)のような何らかの不具合を長い期間わずらったままであるというこである。 そんなに長くずっと具合が悪いということは、遺伝的にそうなのであると考えてしまうということだ。 しかしながら、ほんとうのところは、問題の原因はほとんど、金属の靴、小さな部屋に入れられていること、 食料、あるいはストレス、こういうものである。たくさんの事例が明らかにしていることは、 問題を抱えている馬でも、その問題の原因を取り除いてやれば、つまり、自然から与えられた本来の生き方ができるチャンスが与えられれば、 健康を取り戻すことができるということだ。

馬が人間に飼われている方が自然に暮らしているより幸せになれるかどうかという問いに対してはシャイボーイが答えている。 疑問の余地なく、見たり聞いたりしたことから、自分の経験から、人間と馬との関係は、おどろくべきものになることができる ということを知っている。人間は群の一員になることができるし、その群のリーダーとなる、選ばれることもできるのだ。 しかし、良きリーダーは、自分の群を、考え得る最高の状態にすべく世話してやるのである。 どんよくに集め自ら経験したことにより得た知識から判断して、確実に言えることは、考え得る最高の方法は、人間のものの考え方でなく、 馬側の立場、馬の思考を根拠にしたものでなくてはならないということだ。 馬が欲するものは、自分が安全であると思っていられること、できるかぎり健康でいられること、そして、 なるべく長く生きられ、その間、幸せであること。むろん、そうすべきである。 しかし、群から離され、狭い部屋で運動もできず、一日数回しか食べることができない。こういう状況では健康ではあり得ない。

ある夜、馬たちと一緒に外にいた。雨になる前に餌の支度をして(馬小屋の)掃除もしてしまおう、などと考えていた。 (雨といっても)10月のこのあたり、雨はほとんど降らないのだが。しかし、その時は雨が降った。私はぬれて寒かった。 気温は55°K(≒13℃)ほどしかなく、ぬれた私は凍える思いだった。

馬たちを見ると、頭を下にして雨水がしたたっていた。私はいたたまれなくなって、ホルターとリードロープを取りに行き、 屋根のある部屋の中へ連れてきた。スト−ル(各部屋)は四隅を完ぺきに囲われたものでなく、半分は仕切りがなく、 一面は外気にさらされていた。もし、セントラルヒーティング完備で、ふわふわのベッドのあるすばらしいバーン(小屋)が あったら、私は躊躇なく馬たちをそこへ入れてやったであろう。 馬というものは人間が感じるようには感じないものだということを理解するのはそう簡単なことではない。 とくに、寒くて身体が濡れてしまったときには。

そのときは息子と旅をしていた。 息子は投資物件を探していた。そこはアイダホの北である。車を運転して、すばらしい設備のランチへ到着した。 大きなログハウス、フェンスで囲われた草地、目をみはる6部屋ある馬小屋(バーン)などが付属設備としてある。 息子が持ち主にいろいろと質問している間、私はあちこち見て回った。ああ、こんなのが欲しいと思いながら、 とくにすばらしいのが馬小屋だ。人間は、じっさい馬にとって必要以上のものを欲しがるが、いったいどうしてだろうか? 私はその馬小屋の中に入って、中央の通路を歩いて、そのきれいさにびっくりした。 なんて清潔なんだ!たまたま、その持ち主がやってきたので、私は尋ねた。

この馬小屋はきれいすぎる。まったく使ってないのですか?
そのとおりさ。ここは乾草の倉庫として使っているだけさ。
馬たちはどうしているのですか?
馬たちは外の方が好きなのさ。
冬でも?雪が降っていても?
そうさ。

ここはカナダとの国境から12マイル(≒19km)しか離れていない。 冬はかなり寒い。わたしはびっくりした。

オーナーがあちこち見せてくれた。その1つに馬小屋の外側に彼自身が付け足した「さしかけ」がある。 屋根と間仕切りだけがある。それぞれの仕切りの中に穀物を入れてやり、各馬が別々に食べられるようにしてあるのだ。 馬たちは、いつでも、自由にさしかけの中に入ることができるが、穀物を食べるため以外に中に入ることはない。 これを聞いてまたびっくりした。こういうことも、私が自分のうまたちについて考えていたこと、感じていたことと 相反することだった。われわれは馬というものを大きな犬のように思いたがっているのだ。 そして、そのように扱いたいと思っているのだ。

馬は大柄な犬ではない。
少しも似たところはないのだ。

犬は人間と同じように洞くつに住むものである。プレデターである。 自分の身は自分で守る、そういう生き方である。 彼らが集団で活動する(走る)のは狩りのためであり、身の安全を守るためではない。 パット・パレリが言っている。人間と犬は、ほめられること、認められること、もの(物質)そのもの(を与えられること)に もっとも興味を持つと。馬はこういうものにいっさい興味を示さない。馬にとって興味の対象になるのは、 安全、情緒的なこと、心のやすらぎ、あそび、遊んで楽しいこと、食料、生殖である。 ほめられること、認められること、もの(物質)というものは、馬にとってはまったく興味の外なのである。 まったくである。

まったくわかりずらいだろう。ではいったいどうすればいいのか? いたれり、つくせり、馬にしてあげる。たとえば、セントラルヒーティングと空調完備の居心地の良い部屋に入れてやること。 壁の一部はベルベット、床はふかふか。こういう扱いが、いかに害であるかということである。 それはそれは、ほんとうに有害なのである。馬のためにこうしなければと人間が考えることは、 たいていの場合、かれらの健康、幸せにつながらないのだ。馬の生理というものは数百万年かけて現在のようになっているのである。

■蹄鉄のない素足で1日に24−32km移動する。
■群でいることで身体的にも精神的にも安心していられる。
■1日16−18時間も食べている。地上にあるものを、いろいろなものを、
絶え間なく少しずつ食べるのだ。それが胃の小さいかれらのやり方だ。
■かれらは体温調節機能を持っており暖房、毛布、その他の補助がなくても体温をコントロールできる。
■自分の糞尿が化学変化したものの中でなく、それらのにおいのする中で呼吸するのでなく、狭いために
二酸化炭素がたまった中でなく、 しっかりと締まった、日々新しくなる大地の上に立ち、そこを歩くように
作られているのだ。
■あるていど、ぐっすりと、REM(レム)睡眠しなければならない。それができるのは、たいていは群の中に
いて、群の馬たちに囲まれ、群の中の見張り番がその役についているときである。

(ストレイサー博士が)馬という有機体が自然界の事象と関わって生きているわけだが、その複雑な関係を、 すごく精密に作られた錠前とそのカギというシステムに見立てて説明している。 錠前の方でも鍵の方でも、たとえば、錠前の中に異物が入ったり、鍵の角の一部が破損したりして、 何らかの変化が生じたとき、錠前とその鍵というシステムはもはや機能しなくなるということである。

むろん、温度をコントロールされている部屋に入れられている馬、ブランケットを着せられている馬、そういう馬は冬毛が伸びることもないし、 体温調節機能を強化したり、その機能を働かせるための刺激を感知することもない。 そういう馬は、冬に向かって少しずつ慣らせていかねばならない。冬になる前に、まず早春に外気に慣らし体温調節機能を 回復させてやらねばならない。そして来るべき冬に備えるのである。

少し(人の)助けが必要となるのは極度に低温で雨もあるときだけである。 体毛が濡れ、身体がすごく冷え、風をよけることができないとき、馬の体温調節機能でカバーしきれなくなる。 このことについてしっかりとした研究の成果を目にしたことがないので後で悔やむより前もって対策を立てておいた方が良いと考える。 馬たちが放されているところ、放牧地、草地に、自然にある風よけとなるものがないなら、その代わりになるものを用意してやる。 たとえば、ひどく寒い日、雨にぬれずにすむような屋根のある風よけがあればいいだろう。

自分が、雨の中、レインコートもなしで外に立っていたら、自分の馬にも同じことが起こったとしたら、ああ、かわいそうと思ってしまう。 『雨の中でも馬は平気なんだよ。ジョー、ほっておきな。』とは言われたくない。自分だったらみじめに思うが、馬はそうでないなどとは、 そんなふうには思えないのだ。しかし、じっさい馬たちは平気なのだ。 アイダホの旅で出会った馬たちもそうだが、いろいろなもの、ことを目にしてきた。 そういう経験が、私に対して、もっと学べ、もっと深く知れ、バーンやブランケットメーカーの宣伝に踊らされた罪悪感を、 昔からの考え方を捨て去って、ほんとうのことを知るようにと駆り立てるのである。 馬たち(の存在)がわたし自身のためになっているのと同じように、私自身がかれらのためにできることをする。 それ以外に理由はない。

われわれはかれらの生命、生き方、暮らし方をコントロールする立場にある。 この動物のすべてに責任が生じる。健康、食料、その幸せ、もろもろの世話をしなければならないわけであり、 言葉に出さなくとも、できる限り最高のケア(世話)をすることを約束する。われわれは馬というものについてあらゆることを学ぶことができる。 長生きでき、幸せに暮らさせるにはどうすればいいかも学ぶことができる。馬のLife(暮らし方)というものは、 「馬のそれはこうあるべき」とわれわれが考えるものとはちがう。われわれが「そうしたい」と思っていることとはちがう。 いま、キャサリンとわたしが知っている、わかっている、馬のLife(あるべき姿・暮らし方・幸せ)はまちがってはいない。 というのは、これまで、それについてずっと学んできたわけであり、理解してきたことについても正しいと確信している。

それにもかかわらず、世界中で飼われている馬のほとんどは、何かしらの形をした小部屋の中に入れられて飼われている。 1日中でないにしても、1日のある一定の時間は。しばしば、それらの小部屋は完全に外部から切り離された建物の中に、 さらに仕切られた状態になっている。その1頭用に仕切られた広さはまちまちだが、ほとんどのものは、 12フィート四方(3.6mX3.6m)である。このようなライフスタイルによる悪影響が重なり、馬という生きものにひどい害を与えているのだ。 馬というのは生まれながらに原野に暮らし、昼も夜も群の仲間と動き回る生きものなのである。

これに対する反論としてもっとも多いのが『われわれの飼っているのは野生馬、ムスタングではない。家畜となった馬である。』 というものだ。『家畜となった馬はもはや自由に走り回ることはないのだ』と言わんばかりであり、馬を馬たらしめている、 数百万年の間に受け継がれてきたものが変化していると言わんばかりである。糞尿から生成されたアンモニアによって馬の蹄は 侵食されるが、そんなアンモニアは存在しないかのようである。馬の身体は、常に動き回るのに向くように作られているのだが、 それが突然、1日のうち12−24時間、歩きまわることなく、走り回ることなく、ずっと立っているのに向いた身体になったと 言わんばかりである。馬の呼吸システムは野外にいて新鮮できれいな空気を吸うことで健康を保つように作られているわけだが、 それが突然、閉ざされた狭い空間の中で、高い二酸化炭素濃度の中で、アンモニアを吸い込むことで健康になると言わんばかりである。 馬は平均的に1分間に62リットルの空気を取り込み、1時間に150リットルの二酸化炭素を放出する。 さらに、アンモニアはタンパク質を破壊する有害物質であり、ストール(馬の個室)がマーケットから姿を消しつつある国もある。 【訳者記:たぶん組み立てユニット(ボックスストールというようなもの)があるのだろう】

野生馬、ムスタングとはちがうと言って、身体中の血液の循環が阻害されてもいいということにはならないだろう。 蹄鉄を履かされ、ストールの中で立ちっぱなしの馬は血行が悪くなる。血行が悪いと蹄が弱くなる。 蹄によって作られる角質(horn)の質が落ち量が減るからである。さらに、血行が悪いということは 身体の末端(蹄)まできた血液が肢を登って送り返され身体の他の部分に戻っていかないということであり、 それは心臓に良くない(負荷がかかる)ことであり、結果として免疫システムに悪い影響を与える。

さらに、ムスタングであれ、家畜馬であれ、飼い葉おけ、フィーダー、 あるいはヘイネット(たいていはテーブルの高さに吊り下げられている)から食べるのは健康的でない。 馬は地上にあるもの(生えるもの)を食べるように作られている。また、家畜化されたといっても、 閉所恐怖というものがなくなるわけでもない。ある程度のストレスから解放されるということもない。 そういう恐怖やストレスというものは、閉じ込められているという感情、そこから逃げ出せないこと、 仲間がいないこと、退屈なこと、こういうものから生まれるのである。 馬が自らストールの中に入っていくということがあっても、それは、いつもそうされているので慣れてしまったり、 そこに入れば食べ物があるということがわかっている、というだけのことである。

飼われている馬が、だいたいにおいて、野生馬と同じ寿命を持ちえないといわれても不思議ではあるまい。

ふしぎなことは、たくさんの、馬のことを大事に思っている、知的で、心の優しい人たちが、自分たちが自分たちの馬に 何をしているのかということについて、ほんとうのところを知らないままでいること、気がつかないままでいることだ。 私が述べたこれらのこと、情報は、手に入れたいと思えばすぐに手に入れることができる。研究論文、本、 インターネットによってである。

野生馬が自然の中で暮らしているように、それに近い環境にしてやれば、その効果はある。 そういう環境を(人の手で)作ってやるのはむずかしいことではない。 そういう環境にしてやれば、馬たちは健康なだけでなく、ずっと幸せに暮らすことができる。

スクリブルス、キャッシュ、マリア、ポケット、ハンサム、スキーター、かれらに聞いてみればすぐにわかる。

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