目次へ戻る THE SOUL OF A HORSE
馬の心を知る
津別ホーストレッキング研究会

第6章 Starting Gate(スターティングゲート)

あるホースクラブのオーナーが『あの馬は厄介だ!生まれつき手に負えない!』と言った。しかし私は彼を信じるつもりはない。 私もかつては彼の言うように思ったこともある。 しかし、モンティー、パット・パレリ、ジョン・リオン、その他、たくさんのナチュラルホースマン、 有名な獣医である、ドクター、ロバート・M・ミラー、たくさんの人たちが、生まれながらに厄介な馬などいないと言う。 馬たちが厄介者となってしまうのは人間のせいである。その原因のほとんどは、人間が、馬というものは、臆病で、 わずかのことにもすぐ怯え、急に走りだし
たり、人間の思いの及ばない行動をするものであるということがわかっていないか、 わかっていながら、そのように扱おうとしないからである。この性質は遺伝的に組み込まれており、 その反応・行動は、ある外部からの刺激に対して反射的に起こる。
音、におい、チラチラ・フラフラして動き、どんなものであれ、なじみのないものに遭遇すれば、そういう刺激を受ければ、 とっさに、人間が思いつかない行動をするのである。まずは、刺激に対して(その馬が正しいと思う)行動をするのである。 考えるという行動はずっと後になってからのことである。 馬のこういう行動を、その馬が持つ気質・気性のせいだと考える者もいる。 そう考える者に言わせると、そういう馬は元々厄介な馬なのだとなるのである。

マリアはかつて、林の中のリスにびっくりして、1mほど横に飛びのいたことがある。 そこにはキャサリンがいて、キャサリンを突き飛ばしたのである。マリアはわざとそうしたわけではない。 キャサリンにケガをさせようとしたわけではない。たぶん、マリアは『ママー、助けて!』と、キャサリンのポケットの中に飛び込もうとしたのだろう。 なぜなら、それまでに、マリアにとってキャサリンはすばらしい、信頼に足るリーダーであることを証明済みだったからだ。

あのホースクラブのトレーナーだったら、たぶん、そういう馬をひっぱたいていただろう。 マリアはただ恐ろしかっただけで、今までずっとそうしてきたように反射的に動いただけなのだが、そういうことはまったく考慮することをせずにである。 馬を叩けば、その行為に対して(馬は)反応し、行動する、反射的に行動する。このように連射してしまうのである。 そういう連鎖によって、馬は、じきに、人間というものは「まったく手に負えないもの」と思いこんでしまうのである。 そういうもの(者)は正にプレデター(馬にとっての捕食者)である。どんな場合であれ、そういうもの(者)が自分に近づいてきたら、 痛い思いをさせられるということである。そういう経験を重ねれば、馬はより怯えやすくなるということになる。 そういうもの(者)に対して、そういうもの(者)の行為に対して、その場から逃げようとするのである。 もし、それができないとなれば、身に降りかかることがわかるのであるから、自分の身を守る行動に出るのである。

キャサリンはアドレナリンを下げようと努めていた。そうすることで、マリアの精神状態もおだやかにさせたのである。 キャサリンは起き上がって、この小柄な牝馬をなでてやった。そうすることで、 自分がマリアにとって危険な存在ではないということを、マリアに危険が及ぶことはないということを、教えてやったのだった。 キャサリンがいつも心がけていたことがある。それは、著名なオーストラリア人のクリニシャンである、クリントン・アンダーソンが言っていることだ。 ちゃんとトレーニングされるまで、ちゃんとデセンシタイゼーション(いろいろなものに慣らしておどろかなくさせること)されるまで、 その馬のそばにいてはいけない。言いかえれば、危険が及ぶ範囲にいてはいけないということ。何が起きてもケガをしないように準備しておくこと。 馬に何かを教えるときは、ゆっくりと教えること。馬が怖がるもの、ことに対して、それが何であれ、デセンシタイゼーションしておくこと。 あなたがそばにいれば、自分の身が安全であるということをわからせること。そして、つねに、人間のパーソナルスペースを尊重するよう教えること。 (馬と自分との距離をある距離に保たせること。許しがないのに、求められないのに、一定以上に近づかないようにさせること) つねに、他のもの、ことでなく、あなた(人間)に意識を向けているようにさせること。 反射的に行動するのでなく、考えるということをさせること。つねに肝に銘じておくべきことは、人間と同じように、 馬も一頭一頭ちがうということだ。敏感なものも、そうでないものもいる。覚えの早い者も、そうでない者もいる。 手をやかせる者も、そうでない者もいる。もし、かれらが自分で判断し、ある選択をしたなら、そうさせたなら、 そして、かれらがあなたを信頼し、あなたと一緒にいることを選んだのなら、そこから先は、学ぶということに対して、 自らの意志で取り組むようになり、あなたの導きに従うようになるのである。リーダーであるあなたに従うようになるのである。

かれらが何ごとかを学んでいるとき、人間がその何ごとかを教えようとしているわけだが、 それはいったい何なのか、どういうことなのか、それをわからせてやらねばならない。 それをわからせてやらねばならないのは人間の側である。いかにして人間の意図していることを馬にわからせることができるかである。 そのとき、一方的な支配、強迫、卑劣な行為、残酷な仕打ち、苦痛を与える、これらを用いないでしなくてはならない。

誰も近づけない、ほとんどの人が手に負えないと判断してしまう、そういう馬についての話をモンティーはたくさん知っている。 しかし、かれらはいま幸せに暮らしている。人間との関わりに適応できるようになり、人間の良きパートナーとなっている。 英国でのことだが、ある馬は正気に戻るまで3日かかったが、ちゃんと正気に戻ったのである。 この馬は、それまでの間に、どこかで、ひどい仕打ちを受けたのは明らかである。その経験から、人間というものは誰でも悪魔の手先 であると決めつけるようになってしまったのだ。モンティーは(その馬に)そうではないということをわからせたのだ。

たくさんの場所、地域から、このような喜ばしい、完璧な結果が出て、報告されているというのに、なぜ、われわれは現状に甘んじているのだろうか? 多くのオーナーたちは未だに(馬に関わる)暗黒時代に住んでいるのだろうか? 私が思うには、そうなってしまう原因は、多くの人が、ものごとの最初から始めるということをしないからだ。 トレックレースに例えれば、かれらはスターティングゲイトから走り出すのでなく、トラックの途中から走り出したがるからである。

かれらの思い、願いはこうだ。さあ、馬を手に入れたぞ。この馬で何かしたいな。何をしようか、さあ、乗ってみよう。競技もしよう。 他にもいろいろなことができるぞ! 人間というのは、このようにせっかちな動物である。せっかちなので、お互いの間の関係というものを築く時間がない。 時間を作らないのだ。意思の疎通を図る(コミュニケーションの)ために学ぶということをしないのだ。相手を理解したり、 自分を相手に理解させたり、そういうことを学ばないのだ。

最初の最初から始めるということ。
われわれの最初の最初は、モンティー・ロバーツという人物を知ることであった。 そして、かれが提唱するジョイン・アップというプロセスを踏むということであった。 そして、その最初の段階で対処せねばならないものに、キャサリンの恐怖心があった。 彼女は気をくじかれ、すくんでしまい、私もどうしていいかわからなかった。

そもそも、私の誕生日にトレイルライドを計画したのはキャサリンであるが、それは私のためにであり、キャサリンがそれをしたいということではなかった。 その頃、私は、ベンジーシリーズの最終作の人気がイマイチだったので気落ちしており、キャサリンは、そんな私のために、気晴らしに、笑顔になるようにと、 誕生日に何かをと考えていたのだった。あのトレイルライドはそういう目的だったのだ。

キャサリンの恐怖心が大きくなっていくので、私はなんとしても、われわれの下にいる(初めての)馬たちが安全なものであり、 われわれとの関係も、良好で、安定したものでなくてはならない、と思うようになった。 最初の最初から、必要なことをする、そこから始める。どれだけ時間がかかろうと、必要な時間はかける。

クリニシャンのジョン・リオンが言うには、何かを怖いと思う時、それには確かな理由があるということだ。
『自分が(状況を)コントロールできないと自覚したとき、恐怖心が起こる。コントロールできるという状況になれば、そう自覚したとき、 恐怖心は収まるのである。』

DVDや本はいろいろあるが、それらはすべて、馬の身体の各部分をやすやすとコントロールするにはどうするかということがます述べられているのは そういう理由なのである。このように、あっちへ、こっちへ、後ろへ、前へ、横へ、意のままに動かせることである。 地上においても、騎乗しても、である。そのようにコントロールできるということは安全であるということである。 そして、そのことは馬の信頼を得ているということである。なぜなら、群れの中で使われていることばを使って話しかけている、 働きかけているからである。そして誰が誰を動かすかということだ。

さて、キャサリンの恐怖心に話を戻すが、私はジョン・リオンのことばを次のように言い直してキャサリンに伝えた。 『自分が(馬を)コントロールできると自分を信じることができれば恐怖心はなくなる。』 なぜそう言い直したかというと、私が見るところ、キャサリンはすごく上手に馬をコントロールできているにもかかわらず、 それが自分がやっていること、自分でコントロールできているのだと思っていない、信じないからだ。 彼女は、やるべきこと、やるべき動作はすべてやっていた。DVDや本にあることはすべて。 しかし、自分でコントロールできていると思わない、信じないのだ。自信に結びつかないのだ。 【訳者が思うには、キャサリンは本やDVDを見ているわけだから、自分のやっていること、それに対する馬の反応がどういうことかわかっていない ということはないと思う。たぶん、馬をコントロールして、それができていても、そのことで馬が急に走り出したりしなくなるとは信じていなかった、 信じられなかったということではないか。】

私が恐怖を感じる境界線(値)はキャサリンのそれよりも高い。たぶん、私の場合、あれこれ考えることなく、馬と心が通じていたのだろう。 おそらく、何十年にもわたって犬と関わってきたこと。犬たちの心の中に入り込んでいたこと。そして、人びとを犬の世界へ、犬の心の中にいざなう、 そういうことをしてきたことと関わりがあるだろう。キャッシュと初めてジョイン・アップしたとき、キャッシュが私のすぐ後ろまで来て、 私の肩先に(鼻先で)触れたとき、キャッシュと私の間には心のふれあいがあった。互いの感情を感じあった。私は彼の方に向き直って、そのとき、 完ぺきに彼を信頼していた。彼は私の肩にふれることで私の信頼に対して信頼でお返ししてくれた。キャサリンが初めてジョイン・アップしたとき、 私がしたような心のふれあい、感情を感じあうということはなかった。彼女は、するべき動作・身ぶりはすべてやった。 しかし、彼女は、馬が彼女のすぐ後ろまで歩いてきて、彼女を突き倒すのではないかと身を固くしていたのである。 馬を信頼する気持ちになっていなかった。そのことは彼女も自覚していたし、不幸にして、馬も感じ取っていた。 その場にいなかった者にとっては、こんなことを言うと奇妙に思うかもしれないが、馬というものはそういうことがわかる、感じ取るのである。 それは確実にそうなのだ。馬はけっして人間を裏切らない。つまりウソをつかない。そして、かれらは人間のウソを見抜くのである。

しかしながら、こういうことについて、よくわかるようになったのはずっと後になってからだ。 このときは、キャサリンも私も、何かがまちがっている、ちがっている、ということがわかり始めただけだった。 キャサリンは馬を信用・信頼できなかったので、馬の方からも信用・信頼を得ることができなかった。 そういうわけだから、キャサリンは馬を状況をコントロールできていると信じることができなかったのだ。 私についていえば、コントロールできているということがわかっていた。 しかし、なぜコントロールできているのか、その理由はわかっていなかった。 そして、何かしら疑問があって、その疑問について、はっきりした理屈で、論理的に説明がなされないと、理解できないと、 私はいてもたってもいられない、そういう性質なのだ。

本やDVDはどんどん増えていった。それらのすべてが、いちばん最初からちゃんと始めることだと言う。 つまり、すぐに乗るのではなく、馬場の中で、人は地上にいて、馬に後退させたり、横に動かしたり、人のいる方へ歩いてこさせたり、 を教えることだ。こういうエクササイズ(動作)をすることで、コントロールできるようになる、と多くのDVDは言っている。 いつ、どこへ、どのように、馬を動かすか、完ぺきに思いのままに動かすことができるようになれば、つまり、コントロールできるようになれば、 安全な馬を手に入れたことになるということだ。その馬に乗るのは、そうなってからであるということである。

しかし、わたしは、なぜそうなのか、その理由が知りたかった。
と同時に、わたしはキャッシュと次の段階に進みたくてしょうがなかった。 ジョイン・アップした後、かれはわたしにリーダーとしてふさわしくあるよう期待していた。 そのつもりで、次の段階へ進むつもりで、わたしとキャッシュは馬場へ向かったのである。

人は失敗をくりかえして学ぶものである。
たくさんあるDVDの中の1つは、後退させる方法は3つあるとして、 それぞれのやり方を詳しく述べている。

方法1でキャッシュを後退させてみる。
方法2でキャッシュを後退させてみる。
方法3でキャッシュを後退させてみる。

いったいなぜ?どうして3つのやり方が必要なのか?わたしにはその理由がわからなかった。 とくに、この時点で、である。つまり、最初の最初にである。われわれ(ジョーとキャサリン)にとって、まったく初めてのことなのに、 1つだけでも2人をまごつかせるのに十分だったろうに。

まさにサーカスのピエロのように見えたであろう。
わたしのやっている様子、その姿は、つたないとか、ぎこちないとか、そういう形容がぴったりという程度のものではなかった。 わたしはリードロープを持ち、もう一方の手で90cmのハンディースティックを持っていた。ハンディースティックというのは、 プラスティックの棒であり、腕の延長させる道具ということだ。馬のそばにいて、キャサリンが突き倒されたような目に合わない ですむように、少し離れていることができるようにということだ。そうであってほしいものだが。

DVDを出しているトレーナーはたくさんいるが、そのうちの1人が使っているスティックはピンとした硬さを持っているものであり、 むろん、それで叩くためでなく、誘導するためのものである。このDVDについて言えば、片方の手で持ったリードロープであることをやりながら、 もう片方の手に持ったスティックであることをやらねばならない。さながら、片手で腹を成るくさすりながら、 片手で頭のてっぺんをポンポンと叩くということをするようなものである。 私は自分が演じているその様子が、まさに、頭のおかしい者のように思えた。

キャッシュは頭を斜めにして、何をやっているの?と言いたげな顔で私をまじまじと見ていた。 私はいまにもキャッシュが吹き出すのではないかと思った。わたしのやっていること、動作は明らかに効果を上げていなかった。 しかし、何かひっかかるものがった。納得のいかないものがあった。初心者だから上手にできないこととはちがう何かがある、そういう気がした。 キャッシュとわたしが互いに信頼するようになったのは、ほんの数日前のことだ、丸馬場の中でのことだ。 そして、いまやっているこのエクササイズは、その信頼をより確かなものにするということに貢献してはいなかった。

私がやっていたことは、ある(特定の)タスク、動き、動作を学ぶ、身に付けることだった。というか、 そのタスク、動き、動作を馬に教える、するようにさせる、ということだった。あるいは、その両方。自分もタスクを身につけ、 馬にもできるようにさせるということだった。

しかし、私がもっとも知りたかったことは、この大きくて、すばらしい動物に対して、 いったい何が、どのように作用するのかということだった。かれが何ごとかを学ぶとき、 どのようにして学び取るのか、どうしたらかれがよくわかるようにコミュニケーションできるか、 ロープを手に持って、あるいは、スティックを持って、あのタスクをやっていたわけだが、 それはかれにとってどういう意味があるのかということ、そういうことが知りたかった。 それがわかって初めて、あの日わたしがやったこと(あるタスク)について、 キャッシュが理解できないでいたことを、はっきりとわからせてやることができるのだが、 そのことは私自身についても言えることだ。私はDVDで説明されていたとおりにやろうとしていた。 動作ひとつひとつについて、そのとおりにやろうとしていた。 そのとき思ったこと、感じたことは、リードロープの先にいる彼と同じように経験するしかないということである。

というわけで、たくさんある本やDVDを見直すということになるのだが、そうなるまでに時間はかからなかった。 そして(見直した結果)わかったことは、後退させることができるようになるまで、 横に動かすことができるようになるまで、 つまり、いろいろなエクササイズをひとつずつ身につけ、本のDVDの終わりにたどりつくまで、 私の働きかけに対してキャッシュが反応するその理由を納得がいくように説明していないということだ。

じっさい、スティックを右手に持った方がいいのか、左手に持った方がいいのか、そういうことを確かめるために、 本の、DVDの、最初の方を、読み返し、見直したのである。あたかも、右手に持つのと左手に持つのとでは(キャッシュに対して)大きなちがいが あるかのように。【訳者記:ジョー・キャンプ氏は、馬が何を、どのように受け取り、どう反応するかということが知りたいということだ。 なので、たくさんある本とDVDから、その最初の方で紹介されているタスクについて、深く読み、見て、そこから因果関係を探り出そうとしたのであろう。】

しかし、じっさいにやったことは、ある著者のシリーズに取りかかると、説明、理由付けというものを探して、 どんどん読み飛ばして、そのシリーズの最後にまで行ってしまうのだ。 そして、さらに次の著者のシリーズに取りかかり、それもどんどん読み飛ばして最後まで行ってしまうのだ。 具体的な個々の課題(タスク・エクササイズ)毎に学んでいくというのでなく、個々のタスクの説明の中に隠されているであろう根本的なもの、 馬が反応する原理、そういうもの(部分)がないかと探したのである。 たくさんある点(それぞれの課題・タスク)を結びつける(共通する、説明となる)何ものかを探したのである。 しかし、最終的にわかったことは、これらすべてのプログラム(タスクの1つ1つ)を学んでいき、すべてが終わった段階になるまで、 求めていたものは見つからないということだ。

なんとじれったいことだ。 つまりこういうことだ。『よくここまでやってきましたね。さて、それでは、ここに来るまでに教えたすべてのタスクが、 なぜ効果を上げることができるのかを説明しましょう。馬がどのように思考し、行動するかについて説明しましょう。 それがわかれば、いろいろな事象について自分で考え、答えを出すことがきるようになります。』

しかし、わたしはそんなにゆっくりと待つのはいやだった。個々のタスクに価値ある目的がないと言っているわけではない。 なぜ馬はそうするのか、なぜそうしたがるのかということを人の方が理解していれば、人にとっても 馬にとっても、それぞれのタスクがより大きな意味を持つことができるようになるだろう。 そうなれば、それぞれのタスクを、人も馬もより早く学ぶことができる、身につけることができるだろう。

たくさんある本やDVDの中で、それらの最初の方で、こういうことを言っているものはない。 『この中にあるプログラムを始める前に、何日間か草原(Pasture)へ行き、馬の群れをただ見てみる。 群れの馬たちが互いにどういう行動をしているか、それをただ見てみるがいい。どんなささいな、 小さなジェスチャーであっても、それが正しく行われれば、希望どおりの結果が得られるのである。 そのことを実際に見て見るのである。』

おー!こういうことをなぜはじめの部分に書いておかないのだ。 わたしはすぐに草原(Pasture)へ行って群れをながめた。何度も何度も。 【訳者記:ここでいう草原は野生馬の群れる自然の草原か? キャンプ氏の数頭の馬が放されているキャンプ氏の自宅にある1.5エーカーほどの放牧地か?たぶん後者だと思う。 1エーカー≒4,047平方メートル=約1,224坪。】

DVDはいろいろあれど、はじめの部分では(こういうことを)言っていない、説明していない。 群のリーダーが身体を大きく見せて、耳を伏せ、下位の馬の尻の方に向かって動いたら、近づいたら、その行動の意味することは、 尻をどけろ、つまり、あっちへ行けということだ。いますぐにだ、ということだ。ボスがそういう行動をしたからといって、 お前が気に入らない、きらいだ、ということではない。この草原から出て行けという意味でもない。ただ、この群のボスはじぶんであり、 雄前へ尻をあっちへ動かせ、と言っているだけだ。ただそれだけのことだ。数分後には、この2頭は互いにくっつくように並び、 頭と尻をくっつけるようにして、互いに尻尾をふって、顔のあたりにたかるハエを追っ払いあうのだ。

馬のこういう行動の仕方は人間にはわかりにくい。人間というのはもっと感情的な動物であり他者の感情を気分を害したくないと考える。 まあ、ふつうそうである。なので、馬の社会のあのような行動が単にリーダ^シップを示す行為であり、リーダーへの尊重、その地位を 確立させるためのものであると考えるにいたるのは簡単なことではないのだ。

わたしがプレデターのように身体を大きくして(見せて)、耳を伏せ、尻の方を向いたとしても、そうされた馬は、 わたしのことを変な奴と思ったり、下位に見たりすることはないのだ。その意味を知っていなければならない。 その馬は、私のことを変な奴と思ったり、下位に見たりするのでなく、他のことを考えているのである。 どういうことかというと、『おや、この人間は俺たちのことばがわかるぞ。すごいな。 ちゃんとした態度で対応しないといけないな。』ということだ。

そして、かれらにとっての当たり前の行動がわたしを驚かせたのである。つまり、かれらはわたしとジョイン・アップということをしたのだ。 わたしを受け入れたのである。わたしは群のメンバーになったのである。ということは、 その群のリーダーとして、どのようにふるまうべきか、それを知っていなければならないということになる。

(人間として)むずかしいのは、身体を大きくする・見せるということを忘れないでいるということだ。 耳を伏せるというしぐさもできないことだ。耳を伏せるかわりに、指(手)を使えばいいだろう。それに、まゆ毛である。 まゆ毛はうまく使える。

だんだんとわかってきたことは、馬になる(馬のまねをする)方法を見つけ出さねばならないということだ。 実際に効果があればいいわけである。馬の行動、意思伝達のやり方を、人間のそれで代用してはいけないのだ。 つまり、人間のやり方をわからせようとしてはいけないということだ。 馬は人間とはちがう。また、犬のやり方で代用しようと考えてもいけない。馬は犬とはちがう。 もし、馬を子犬を扱うようなつもりで暑かったなら、人間は馬に対してリーダーとはなりえない。 なにも馬を抱きしめたり、なでたりしてはいけない、と言っているわけではない。 犬は抱きしめてもらうためなら何でも(人のために)するが、馬は抱きしめられても(何も喜ばず、人のために)何もしない。 しかし馬は、自分が尊敬している(群の)リーダーのためなら何でもする。そして馬は、リーダーである、かれ又はかのじょが、 リーダーの名に値するかどうか、常にチェックしているのである。

これら全てを学んだのは、あの草原(Pasture)でのことだ。そして、いかにして馬になるかということがわかりはじめた。 まず最初に何をせなばならないか、どこからスタートすべきかということが、ついにわかった。

ついにそれがわかったと思い、嬉しくて嬉しくて、恍惚状態であった。

たくさんのDVDを見たが、わたしを満足させるようなことども(草原で発見したこと)を最初から教えてくれるものはなかった。 馬にとってのごほうびがどういうものであるか知っていると、それだけで、馬を扱う関わるうえで大きなちがいがある。 大きな利点となる。それは、個々のタスクに取り組むとき、そのやり方、その過程においても、大きなちがい、恩恵を与えてくれるだろう。 しかし、それを学ぶために、発見するために、草原へ出かけて行ったわけであるが、そういう行動にでるためには、 たくさんあるDVDをどんどんと(ざっと目を通すように)見て、先へ先へと進んで行かねばならなかった。 (重要なことをもっと最初に言って欲しかった)

馬にとって、ほんとうに意味のある価値あるごほうびが何であるか、ついに発見した。 与えられている、加えられているプレッシャーがなくなることだ。 馬はごほうびが与えられることで学習するのである。ほうびが学習へつながるのである。 それが、その過程、やりとりが、コミュニケーションというものであり、理解すること、お互いに相手の意図するところを、 わかりあうということである。いたって単純なことだ。自然界においても、たとえば、馬がクーガーに襲われたとしたら、 そのクーガーが追いかけるのをやめて(あきらめて)戻って行ったとき、ごほうびが与えられたということになる。 プレッシャーがリリースされた(取り除かれた)ことになる。

馬の群れにおいても同じである。マトリアーク(牝馬のリーダー)が行儀の悪い子馬を躾けるとき、 その子馬を群の外に追い出し群に戻れないようにプレッシャーをかける。 そして(ある時間が経過して)その子馬が反省し従順な態度を示したとき、加えていたプレッシャーを取り除いてやるのである。 それがその子馬へのごほうびである。その子馬が、プレッシャーをなくすにはどうすればいいかということを理解し始めれば (次回、同じあやまちを犯したとき)反省をし従順な態度を示すまでの時間は短くなるだろう。 そして、そうあってほしいものだが、3回目はなくなるかもしれない。 【訳者記:群のリーダーといえば、たいていは牝馬の1頭でありマトリアークという。 また群には成熟した雄馬(スタリオン)は1頭であり、群の全ての子馬の父親であり、 外部の雄馬や外敵から群の馬たちを守るリーダーでもある。】

群のリーダーが、そこから移動しろと命じ、それを命じられた下位の者がそれに従ったら、そのときすぐに、リーダーはプレッシャーをかけるのをやめる。 下位の者にとっては、かのじょ(リーダー)がプレッシャーをかけてきたとき、自分がその場から移動すれば、彼女はプレッシャーをかけるのをやめる、 そうすれば、自分は不安な居心地の悪い状態から抜け出せる、ということを学ぶことになるのである。

次回、同じようにリーダーである彼女に(移動を)命じられたら、前回よりもずっと早く命令に従って移動を始めるだろう。 そうしているうちに、リーダーがただ睨んだだけで、その馬は理解するだろう。身体を大きくさせることも、しぐさを強調することも必要なく、 たぶん、耳をちょっと伏せるだけで、あるいは、ちょっと頭を振るだけで、相手は命令に従うようになるだろう。

われわれが(馬に)教える時も同じである。プレッシャーそのものよりもプレッシャーを取り除くことが重要だ。 期待した反応があれば、その反応の度合がほんのわずかであっても、反応を示した瞬間にプレッシャーを取り除く(リリースする)ことが重要なのだ。 馬もそれぞれ個性があるから、反応の度合い・仕方は個々の馬によってちがう。 しかし、たいていの場合、次の結論に達するまで、そう時間はかからないだろう。 『ああわかったぞ。ジョーがああしたとき、かれが求めていたのはこれにちがいない。』

じっさい、こういうことも、馬に判断させる、選択させるという戦術(ドクトリン)と同列のものだ。 プレッシャーにさらされ続けるか、プレッシャーがなくなりほっとするか、どうするか? どちらを選ぶか?(求めに応じて)移動して、プレッシャーがなくなる状態にする方にしよう、という選択をするだろう。

たぶん、キャサリンとわたしは変わり者なのだろう。ともあれ、2人とも共通した考え方をしていた。 というのは、馬はどのようにして学習していくのか、群の馬たちはどのように互いに教え合うのか、 他者から発信される情報をどのように受け取り、どのようにしてその内容を理解するのか、 そういうことについて(あらかじめ)わかっているということは、 実際に(馬の)トレーニングをする過程で大いに役立つ、洞察力を高めてくれると考えているということである。 基本的な知識を得たうえでことを始める、トレーニングを開始するということだ。 Concept-based learning. コンセプト(概念・考え=理論・原理)を理解したうえで事にあたり、学習していくというやり方である。 これと対極にあるのが、The task-based learningである。具体的な1つ1つの課題(タスク・動作)を身につけ習熟していくというやり方である。

ここいらあたりのことが一気にわかったのは、ある日のこと、あるDVDを見ていたときである。 ある単純なエクササイズ(タスク)なのだが、そのエクササイズについて大きな疑問に突き当たったのだ。 なぜそのエクササイズが(人がリーダーとなるための)有効な手段なのかという点について奥深い分析が必要だったのだ。 そのエクササイズは単純なもので、求められたように頭を下げるというものだ。 このエクササイズではスティックもいらない、馬場という広いスペースもいらない。 腹をなでながら頭を叩くような面倒な動作でもない。 ただ、わたしとキャッシュが、お互いにすぐそばにいるだけでできることだ。

このエクササイズは、すべての馬は本能に従って行動するということを理解したところから始まる。 つまり、プレッシャーに反発する、反抗する、プレッシャーを押し返す、というところからスタートする。 訓練がなされていない馬の場合、たとえば、尻を押すと、馬は押し返してくる。つまり、馬の尻は押しているあなたの方に 向かってくる。肩を押せば肩で押し返してくる。ホルターロープを下に引っ張ると、引っ張り返そうと、引っ張り上げてくる。 なぜそうするかというと、馬に加わるプレッシャーはホルターの上部から加わるからである。 ホルターの上部がかれの頭の上から押し下げられるプレッシャーを感じるからである。 だから馬は頭を上げるようにして、その(頭を押し下げようとする)プレッシャーに対抗するのである。 これらは本能的な行動である。生き残るための本能である。 【訳者記:頭を下げるということは馬にとって危険につながるということだ。】オオカミの場合はどうだろうか。 オオカミが腹に喰いついて腹を引き裂こうとしたとき、その馬が危機を脱して生き残る方法は1つしかない。 自分の身体全体を地面に向けて下げてオオカミを押しつぶすことだ。 オオカミは馬の腹に食い込んだ歯を下へ引っ張って腹を引き裂こうとしているわけだが、このとき、 その引っ張りに対して馬が引っ張り返したら腹を引き裂こうとしている馬の手助けをすることになる。

さて、馬の頭を下げさせたいわけだが、あなたの意図をどのようにしてわからせたらいいのか? 頭を下げさせようとしてプレッシャーを加えたとき、かれはそのプレッシャーに反抗して頭を上げようとする。 こういう状況で、どのようにしてあなたの意図をわからせたらいいか?

(犬の)ベンジーだったら、かれが期待どおりの行動をしたらほうびをあげるだろう。 【訳者記:ベンジーへのほうびは小さく切ったジャーキーなどの食べ物だろう。】 馬の場合、このときのほうびは何になるか?わかりきったこと。プレッシャーのリリースである。 コンフォート(気分の良い、楽な状態にしてやること)さ。

というわけで、わたしはこのエクササイズをするべく、ムッシュ・キャッシュのところへ行った。
そして、このエクササイズを始めたわけだ・・・

頭を下げさせる。
このエクササイズはすらすらと進んだ。リードロープを下へ引くわけであるが、その力はほんのわずかだ。 頭を下げさせようとして引っ張るのではない。グイッと引っ張るのではない。 下へのわずかの力に対してもかれは引っ張り返そうとするわけだが、その引っ張り返そうとする力(抵抗)に負けない程度の力をいれて、 お互いの力が釣り合っている状態となるわけだが、その状態を保っておく。このとき、キャッシュが感じている不快さ(discomfort)は 最小のものですんでいる。(ロープ)ホルターそのものの重さだけぐらいの力(プレッシャー)だ。じきにキャッシュが頭を下げた。 プレッシャーをリリースしてやるのにじゅうぶんなだけ下げた。(ほんの少しだけでもいい)わたしは手に持っていたリードロープを 手から放し、おでこをなでてやった。そして大いにほめたやった。

そして、また同じエクササイズをやった。こんどはさっきより早く頭を下げた。 そして、より下まで下げた。わたしはリードロープを手から放した。 リードロープを手から放すしぐさは、クリントン・アンダーソンが言っているように 「熱々のポテトを持ってしまったときのように」 アチッと、パッと手を開くようにしてリードロープを放した。

じきにキャッシュはほとんど瞬時に反応するようになった。 すぐに30cmほども下げるようになった。わたしは組み立て椅子を持ち出して、その椅子に座った状態で、 座っているわたしのヒザの位置まで頭をさげるかどうか確かめてみた。下へ引く強さを3段階に分けてやってみた。 キャッシュはヒザまで頭を下げたのだ。そのときハミを持っていれば、椅子に座ったままハミを付けられたであろう。 キャッシュは感がいいのだ。ものごとをすぐにのみ込み、求めに応えようとする。わたしたちの馬たちの中で、キャッシュ以外の馬は、 ものを覚えるのにもう少し長くかかる。しかし、もう、他の馬たちも、すべて、このタスク(頭を下げる)は学習した。

頭を下げたままにさせておく。
次のステップは、頭を下げたとき、リードロープを下へ引くのをやめても、リリースしても、 すぐに頭を上げてしまわないで、下げた頭をそのままにしている、させておく、ということである。 この意図を伝えるために、リードロープをリリースするとき、(パッと放してしまわないで)ほんのちょっとだけリリースする。 わずかにリリースされたとき、キャッシュが頭をあげようとすると、かれは再びプレッシャーにぶつかる。すると、すぐにまた頭を下げるのである。

じきに、かれはわたしがリードロープを完全にリリースしても、”オーケー、グッドボーイ”と言うまで、頭を下げたままにしているようになった。 わたしは「口角が耳に届くほど」ニンマリした。このエクササイズがうまくいったことにニンマリしたというより、 かれがわたしの意図を理解したということ、頭を使っているということ、それを実感できたことがうれしかった。 わたしは、かれが、あることを理解したこと、理解したそのはじまりを目にしたのである。 わたしが求めていたことは完ぺきに馬の本能に反することであったが、わたしはかれにとって信頼に値するリーダーであるがゆえに、 かれは不安がることなく、何ごともなく、わたしの求めることを理解し、それに(正しく)応えたのである。 しかも自らの意志で。

キャッシュはやってくれた。わたしはドライブウェイ(敷地内で玄関に向かっている通路)を家の正面ドアの前まで行き、 キャサリンを呼んだ。「出ておいで。見せたいものがあるんだ!」(キャサリンは)まるでわたしが癌の特効薬でも見つけたと思ったかもしれない。 かのじょはドアを開けた。そして食べていたプラムをほとんど飲み込みそうになった。馬が玄関ドアの前にいるなんて光景を今まで見たことはなかった。 キャッシュはほとんどドアの内側まで入り込んだ。かれも好奇心いっぱいだったのだろう。 わたしはキャッシュが覚えた新しい技をやって見せ、これができるようになったプロセスを矢継ぎ早に説明した。 プレッシャー・アンド・リリースという法則を発見したいきさつを話した。

キャサリンは言った。「耳はどうなの?耳は試してみた?」キャッシュはわたしたちのところに来たときから1つのルールを持っていた。 そのルールとは「ぜったいに私の耳には触るな」というものだった。いったい過去に何があったか知らないが、耳には触らせない。 われわれはとまどっていた。馬の耳を折り曲げて馬に何かさせる、何かを受け入れさせるという方法があり、 そういう方法を使うトレーナーはたくさんいるということは聞いて知っている。とにかく、キャッシュの場合、 耳のそばに手をのばすことができなかった。両耳の間を(指で)かいてやるということすらできなかった。

「そうだね。それはいいアイデアだね!」とわたしは言った。 この場合、キャッシュに加わるプレッシャーというのは、かれ自身の(による)恐怖心であり、その恐怖は人間がかれの耳に 触れることによるものである。わたしはゆっくりと彼の耳の方に手を伸ばした。 ちょっと近づきすぎたかなというとき、かれはすぐに身をひいた。私は手の位置はそのままにして、 かれの動きに合わせて(かれの方に)動き、かれとの距離をそのままにすることで、プレッシャーをかけ続けた。 かれが身をひくのをやめて、その場に立ち止まり、数秒間じっとしているようになるまで、そして、 わたしが手で耳に触ろうとしても、そのことで危害に合うことはないと、かれが納得するまで、そして、 気が静まるまで、リラックスするまで、づっと続けた。【訳者記:このやり方はフラディングというもの。よりおだやかなやり方は プレッシャーをかけてリトリート(一度プレッシャーをなくす=リリースする)し、再度プレッシャーをかけてリトリートし、をくりかえす。】

ついに期待していたことは起こった。かれはついに、人の手が耳に近づいてきてもたいしたことではない、恐ろしいことではない、 と考え始めた。そう思えるようになると、自分で自分に加えていたプレッシャーはなくなってくる。 気が楽になってくるということだ。

さて、また手を耳に伸ばす。こんどはもっと耳の近くまで伸ばす。 かれが身をひかなくなるまで、かれの動きに合わせて、彼について行く、かれが身をひくのをやめて、その場にとどまったら、 手を下に下ろす。これはプレッシャーをリリースしたことである。プレッシャーをリリースする行為というのは、 頭を下げるのを教えたときのやり方と同じである。

さて、もう一度おなじことをする。前回よりも耳に近付ける距離を1インチ近くする。 かれが身をひかない行動をしたら、そくざにリトリート(リリース)する。つまり近づいていくのをやめて手を下におろす。 そしてひたいをなでてやる。グッド・ボーイと声をかけてやる。【訳者記:自分も立ち止まると同時に耳に伸ばしている手を下げる。そして、 ふたたび、おもむろに手をひたいまで持ち上げてひたいをなでてやるということ。】 このようにおなじことを繰り返しておこなう。毎回、耳へ近付ける距離を1インチつづ縮めていく。 もしかれが身をひいたら、かれと同じように動いてかれについていく。耳に向けて伸ばした手の位置はそのままにして。 かれがリラックスするまで、つまり、近づいてくる人から離れるのをやめて、その場に立ち止まるまで、 かれについて歩いて行く。ここまで繰り返してやってくると、近づいて行っても、身をひくというのはそうたびたび起こらなくなっている。 かれは状況がわかりかけてきているからだ。最後は、手を耳の付け根あたり、そのまわりに触れ、そのあたりの毛の中に指がかくれるようになるまでに接触し、 そのあたりをやさしくなでてやることができるようになった。ここまでくるのにだいたい10分ほどであった。 このようにしてなでてやった後、手を耳元から離した。この日はここまででおわり。かなり大きな進歩(ブレイクスルー)があったなと思いつつ、終了した。

翌日、20分間ほど昨日の続きをしながら、少しずつ良くなっていったのだが、最後は片の耳全体を包み込むように持って、 親指で耳の内側をやさしくなでてやることができた。これはなんと驚きである。すごい進歩だ。 もう一方の耳については、そのいやがりかげんは先にやった方と、まあ、だいたい同じようなものであった。 その週の終わりには、両耳ともなでてやることができた。耳の外側も、耳の中もである。 そして今日は、耳をなでてやると、キャッシュは、メコが喉をゴロゴロ鳴らすように、私の手に耳を押しつけるようにしてくる。 もっと、もっと、と言っているのだ。ちょっとしたことを知っていること、やること、やるべきことがわかっていると、 ほんとにびっくりするようなことができる、結果になるのだ。そして、急がないこと、気長であること、辛抱強くなくてはならない。

ここでした経験は、キャッシュが、他のすべての馬たちが、わたしに教えてくれていることである。 すばらしいレッスンである。急がず、気長で、辛抱強いからといって、そのことを咎められたことはない。 まったく、ほんのちょっとだってない。キャッシュがそのことを証明して見せてくれた。

まったくそのとおりだ。何度でも言おう。 「ジョーよ、トラックの途中から走り出してはいけないよ。ちゃんとスターティングゲイトから走り出すんだよ。」 なぜこう言うかといえば、馬というのは人間の6−7倍の体重のある動物であり、 肝心な最初からされるべき訓練をされなかったために手に負えない状態となり、 そういう手に負えなくなった馬と対面したとき、圧倒的に自分より大きな相手に対して、とっさに、 反射的に、力を使って支配しようとする行動にでてしまうからである。 (力で向かっても馬には勝てない。けっきょく、するべきことを最初にしていなくてはいけないということになる)

昔、何度かトレイルライドをしたことがある。そのうちの1つで忘れずにいることがある。 ほんの子どものころだ。カウボーイものの映画を見て育ったわたしは、その大きな生きものに、何としても、ボスは誰だか わからせてやりたいと思っていた。そのあわれな馬は、ずーっと同じことをしてきたにちがいない。 わたしのようなアホを相手にしていたのだ。毎日々、当時の私が生きてきた時間よりずっと長い時間をだ。 まさに、わたしはそういうアホの1人だった。手綱をぎゅっとにぎり、あっちへ引っ張り、こっちへ引っ張り、 腹を蹴とばし、支配しようとしていた。何の知識もないままに。

ほんとにはずかしいことといったら、その(子どもの)ときから何十年か後、 キャサリンがわたしのために段取りしてくれたトレイルライドでのできごとだ。 わたしは子どもときにしたことと全く同じことをした。自分がボスであることをわからせようとしていた。 あたかも自分のしていることの意味がわかっているかのように。 そんなわたしにトレイルライドのリーダーはいろいろとお世辞を言った。

まあ、たまにトレイルライドする程度の者についていうなら、そんなものでもいいかと思う。 トレイルライドに使われている馬たちは、かれらに乗る者たちよりもずっとよくわかっている。 トレイルライドのライダーたちは、そんなにめちゃくちゃなことはできないということをよく知っている。 実際、そんなことは許さない、させない。曲がる、まっすぐ進む、止まる、こういうことをトレイルライダーたちが しようと考える前に、馬たちが先にやってしまう。というわけで、ライダーたちが、口を引っ張ったり、 腹を蹴ったりする必要はないということだ。長い間、トレイルライドに使われてきた年月が、 かれらにそれを教え、かしこくしたのである。

しかし自分の馬を持つ身になれば、ことを始めるところは1つしかない。 最初の最初から始めねばならない。 馬というものを知らねばならない。歴史を学び、馬の行動、なぜそうするかをわかっていなければならない。 馬はプレイアニマルである。うさぎのようにかね? まあ、そんなものだ。 しかし、馬は500Kgもある!!

何が、どういうとき、馬が安心していられるかということを知っていなければいけない。 どうすれば心身共に健康でいられるかを知らねばならない。 かれが求めるのはリーダーであるということ。なぜかそうなのかということを知っていなくてはいけない。

シャイボーイの話。
これからお話しするのは私自身(Joe)のものではない。シャイボーイの話を要約してこの本に載せることを モンティーにお願いしたのである。お願いした理由は「人間と馬の間で こんなことが起こリ得る」ということを多くの人に知ってもらいたかったからだ。 モンティーはシャイボーイとのことについて「シャイボーイ」という題名で本を書いている。ぜひ読んでほしい。

モンティーはBBCに「ジョイン・アップというものが、まったくの自然の中でもあり得るか」という質問を受けた。 丸馬場の中ではなく、リードロープも使わず、1頭の野生馬(アメリカのムスタング)とジョイン・アップできるかということである。 モンティーの回答はYesであり、その何カ月か後、モンティーは正にそのとおりのことを成し遂げたのである。 何台ものカメラが追う中、1頭のムスタングとジョイン・アップし、鞍をのせ、ハミを付け、ライダーを乗せさせた。 その馬は後にシャイボーイ(Shy Boy)と名付けられた。この偉業を成功させるために36時間かかった。 その間、モンティーは自分の馬にずっと乗っていた。おどろくべきことを成し遂げたものだ。しかし、この話の重要な部分 というのはこういうことだ。1年後、BBCは再びモンティーに尋ねた。 シャイボーイがかれの群(つまりモンティー自身)に戻るかどうかだ? 【訳者記:1年前、野生にいたシャイボーイはモンティーとジョイン・アップして人を乗せた後、また野生に返されていた。】 シャイボーイはいま野生でのかれの群と共に生活している。そのシャイボーイが野生での仲間のところから モンティーのとことろに戻るかどうか?モンティーと一緒にいることを選ぶかどうか?ということである。

正直なところ、モンティーは、シャイボーイを見つけたいと思っているのかどうか確信が持てなかった。 モンティーはシャイボーイを愛していた。しかし、テレビプロデューサーに説得され、 シャイボーイを探すことになった。ふたたび 何台ものカメラが回り、自然に戻されたシャイボーイと彼の属する群を発見した。

そのムスタングは群の方を一度見て、群に加わるべく駆け出した。その群は、その日の夕刻、姿を見せた後、 夕日の中へ駆け去って行った。モンティーは見張りの者たちをあちこちに配置し、無線を持たせ群を探させていたが、 その夜、ずっと目をさましていた。翌朝9時、無線機が音を出した。群が視界に入った。群はおおむねモンティーらのいる 方向へ進んでいる。シャイボーイは群の前方にいた。

モンティーの野営地のずっと前方に尾根がある。その尾根の向う側、 つまり低くなっているところで群は止まり、そこにとどまっていた。シャイボーイだけが尾根の頂上に登ってきた。 かれはそこにしばらく佇んでいた。まず群の方を見た。そして野営地の方を見た。 そして、ついに、身をひるがえして野営地に向かってギャロップで駆け下りてきた。背の高い草の間を縫うように駈け、 スピードを落として速歩になり、そして常歩となり、モンティーのすぐ前まできて止まった。 この話を読んだとき、わたしは赤子のように泣いてしまった。想像してほしい。 その馬が自分の馬だったら、どういう気持ちになるか。かれは自由の身になっていたのである。 自分で判断し選択できるのである。群と一緒に走り去ることも、あなたのもとへ戻ることも。 あなたのしてきたことが正しかったのだということがわかるだろう。

1年前、わたしたちはついにモンティーに合う機会を得た。それは彼のランチでのことだった。 目的は私のベンジーシリーズの次回作にかかわってくれるかどうか、そういう話をするためであったが、 私は気もそぞろであった。目の前の男は馬に関わる世界においてアイドルである。私は彼の本のすべてを読み、 すべてのDVDを見てきたのだ。私はもう夢見心地であった。

モンティーの今までの経験を直に聞くこと、彼と一緒にいろいろなアイデアについて考えたり、 組み合わせたり、それは今までにない特別な機会だった。しかし、この日のハイライトは、ごめん、モンティー、 シャイボーイと会えたこと、そして、彼とジョイン・アップできたことであった。

わたしたち二人の子どもである、AllegraとDylan、そのとき12歳であった。 2人もその有名な馬(シャイボーイ)とジョイン・アップを果たした。 そのときの様子は、あたかも(生まれて)ずっと、ジョイン・アップということをしてきたかのように自然でなめらかであった。 それを見て、わたしは今更ながら、ジョイン・アップのためにすること、そのプロセズがいかに単純なものであるかということを再確認させられた。 2人はわたしよりずっと上手にスムースにやってのけた。わたしはといえば、先生(モンティー)自らが、ああだこうだと私のボディーポジションを支持し、 修正してくれたのだが、その様子はあたかもよたよたと動き回るピエロのようであった。

しかし、シャイボーイは、わたしたちの下手なやり方、つたなさを補ってくれた。 そして、わたしたちがコツをつかむことができるようにしてくれたのだ。 そのとき、そこにいた1頭の馬は今幸せを感じている、そういう馬であるといことに異論のある者はいなかった。

はっきり言えることは、シャイボーイは自然の中へ帰されたのだが、わたしたちにマリアを売ったような、ああいうカウボーイの元へだったら、 あるいは、この章で話したようなトレイナーの元へだったら、けっして戻ることはなかっただろうということだ。

しかし、シャイボーイはモンティー・ロバーツの元へ戻ったのだ。 わたしはシャイボーイの物語を誰にでも話している。何度でも繰り返し繰り返し話すつもりだ。 シャイボーイの物語は、そうあるべき姿がそこに語られているのだ。 人と馬の関わりにおいて、他のあり方があるわけではない。この物語の中で起きたことは、 誰でも、最初の最初にやるべきことをやる、そういうスタートのし方をしたときに起こるのである。

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