目次へ戻る THE SOUL OF A HORSE
馬の心を知る
津別ホーストレッキング研究会

第24章 The Big Round Circus Ball
       (大きなサーカスボール)


この目新しい物を初めてキャッシュに見せようとアリーナに連れていったときのことだ。 彼は急に立ち止まって、いったい何だ!というように、びっくりした様子だった。 彼の脳の中にはこんな形のものを見た記憶はまったくなかった。そこへ風が吹いてきて、 そのへんてこりんなものが動いた。なんてこった、こいつは生きてる! 気がつくとキャッシュはアリーナの反対側にいた。
そして、はー、ふーと息をはずませていた。 いったい、いつ、どうやって、あっちまで行ったのか、まったくわからなかった。 『ただのサーカスボールじゃないか。』とキャッシュに向かって叫んだ。キャッシュが見せたふるまい、その様子というものは、 多くのことを物語っていた。このサーカスボールとキャッシュの遭遇を目にして、多くのことについて、 今まで考えていたこと、概念を変えさせられたのである。多くのことについて学び直さねばならなくなったのである。

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インドアアリーナの中で起こっていることを想像してほしい。そこには興奮して叫んでいる12万人のファンがつめかけている。 フットボールの開幕を見ようと集まっているのだ。大音量の音楽、ドラムは鳴り響き、ファンたちは肢を踏みならし、 スポットライトが飛び交っている。

馬のど肝を抜くには完ぺきな状況、雰囲気ではないか?自分の馬のどれであれ、こんな喧噪の中に連れ込むなんてことは 考えられない。がしかし、堂々たる灰色のアラブのスタリオンであるハサン(Hasan)はその喧噪の中で、けむりで充満している トンネルの中に入り、ふたたび喧噪の中に出てくる。そしてフットボールのヘルメットの形をしたゴム製の大きな作り物の中を 通過して走り回っている。喧騒はさらにはげしくなる。花火が嵐のように鳴りひびく中をハサンはアリーナの中をギャロップで 走り回る。その後、後肢で立ち上がり、次は前肢を高く上げて歩くのだが、その前肢を中央の台座の上に下ろすのである。 前肢を下ろしながら、その台座を中心に後肢をぐるりと回転させるように踏むのである。 そして右前肢を折り曲げて、すべてのファンにサルート(挨拶)するのである。その後、 その場にじっとしているのであるが、そのとき、ヘルメットの形をしたもので空気で大きく膨らませた作り物の中から 轟音をひびかせながらオートバイの一行が飛び出してきてハサンの回りをぐるぐると走るのである。 そのオートバイにはミニスカートのチアリーダーたちが乗っており、アリーナの中にチャリーダーたちを運んできたのた。

喧騒はさらにエスカレートする。しかしハサンはじっと静かに立っている。ピクリともしない。 落ち着きはらっている。周囲で起こっていることなどまったく気にせず、何も起こっていないかのように落ち着いている。 私は信じられなかった。

この信じられない光景が可能となるのは、1個のサーカスボールがそのスタートとなるのである。

ハサンの17年間変わらぬトレイナーでありコンパニオンであるのはアレン・ポウグ(Allen Pogue)である。 彼の技を見て、人びとは彼をトリックトレイナーと呼ぶようになった。しかし、トリックという表現は 彼の技のほんの表面についても言い表わせるようなものでなく、その価値を下げているように思える。 馬のために、馬と共に、彼が成し遂げたことは、トリックということばで表現できるものではなく、 もっともっとすばらしいものである。わたしたちがアレンを知ったのはつい最近のことであり、 馬たちの彼に対する態度、彼のために何ごとかをしようとするその態度、あり様にど肝を抜かれているのだ。 馬たちが自分のやっていることを楽しんでいる様子を見てびっくりさせられているのだ。

楽しんでやっているということが鍵である。というのは、ナチュラルトレーニング(いわゆるナチュラルホースマンシップに 従ったトレーニングということだろう)の基本部分が本格的に行われるようになった後、 そのトレーニングの過程で、あるいはその結果、馬はトレイナーである、あなたと一緒にいるかどうか(仲間として受け入れるかどうか) の選択をさせられることになるわけだ。そして受け入れた後は、人と馬の間で行われることというのは、 その良い関係を維持する、リーダーシップを維持するということがすべてということになるからである。 そうするための作業が同じことの繰り返しであれば、馬にとっても、その馬のオーナーにとっても、 つまらない、退屈なものになってしまうこともある。 【訳者記:人がリーダーにふさわしいかどうか馬は常に試そうとするので、人は常にリーダーとしてふさわしいことを証明 し続けねばならないという。】

アレン・ポウグの用いるトレーニング内容は、self-motivated-behaviour、自分からそうしたくなるようなものであり、 退屈というものをなくすことが最大の特徴であり、脳を使わせる、つまり考えさせる、やっていることが楽しいということである。 そして、コミュニケーションというものは一方通行ではなくなるのである。馬は自分の意志、考えに従って何ごとかをすること ができ、そうすることで、そうすることが、馬からあなたへ何ごとかを伝えている、コミュニケーションしていることだからである。

アレンによると、ふつうのランチホース(牧場仕事に使われる馬)やパフォーマンスホース(競技馬だろう)はリーゾニング (こうすればああなるというように考えて判断し行動すること)ということをほとんどしないが、その理由は、 それを求められないからだという。たいていのトレーニングは、身の安全を確保しておきたい、苦痛の伴わない状態でいたいという 生まれながらの欲求を利用している。そういうわけで、一般的に馬が学んでいく過程というものが、ある求められている行動をするか、 それをせずに苦痛に甘んじるか、不愉快なことを我慢するか、その選択をさせるという、きわめてゆがんだ、一方的なものになっている。 頭を下げさせるという、きわめて単純な要求についても同じことが言える。つまり、頭を下げるという行動をするか、 頭の上に加わるホルターによるプレッシャーという苦痛、不愉快なことを我慢するか、それに甘んじるか、という選択である。

『そりゃ、狂うや不愉快でない方を取るさ・・・』というわけで、馬は学習するということになる。 こういうやり方には、すごい痛みとか、残酷な仕打ちというものはない。いかし、よく物を考えるという要素は少ない。 また、こういうやり方には楽しいという要素がきわめて少ない。 【訳者記:いわゆるナチュラルホースマンシップのやり方は馬に考えさせ、判断させる、選ばせるということで成立している。 しかしアレンの言う「考えさせる」というのはもっと次元が高いということのようだ。】

彼はそういうわけだ。(いわゆるナチュラルホースマンシップのやり方でなく)他の方法でやるということだ。 そして、その、彼のやり方というのが他とはちがって、びっくりするものなのだ。 草原でふざけてはね回っているとき以外、馬が面白がって何かやっているという光景を見たことがあるだろうか、 ないのではないか。とくに脳(頭)が活発に機能して、つまり、何かを学んでいる、何ごとかをしているとき、 それを面白がっているということがあるのか、そういうところを見たことがあるだろうあ?ないのではないか?

おもしろがる?楽しいことをする?あそぶ?
おもしろがる、いったいどういうことだろうか?

たいていの者は、馬というものは生まれつき、ものを考える能力はない、何かを面白がる能力はない、そう思い込んだまま 成長して大人になっていく。さらに残念ながら、こういうことを考えることすらなく大人になっていく。 (馬と関わっている)われわれも同じではないだろうか。

たとえば蹄鉄についても同じことだ。われわれは蹄鉄のことについてあれこれ考えたことなどない。 私は群の一員になることに、かれらのことばを使ってコミュニケートすることに、かれらがとっさに行動しないように 誘導することばかり気にしていた。むろん、これらのことは、かれらと好ましい関係を築くために絶対に必要なことであり、 人を尊敬するようにさせるための基本的なトレーニングとして必要なことである。 しかし、そこにばかり集中していたために、馬も論理的にものを考えることができるということ、 犬ができるように、そのことについては考えてもみなかった。 ベンジーがそうであるように、馬もことばを理解することができるのだということを考えてみたことがなかったのだ。 しかし、ここで、わきまえておかねばならないことは、いろいろな基本的なトレーニングがまず初めになされていなければならないということである。 なぜならば、馬がとっさに行動してしまうのでなく、踏みとどまって、頭脳を使って考えるという態度を維持することが できるためには、あなたを信頼していなければならないからである。 あなたをリーダーとして受け入れることができるように、あなたを尊敬することができていなければならないからである。 こういうことができていなければ、ものを考えるとか、ことばを理解するなどということはありえない、起こりえないからである。 こういうことができていなければ、馬のことばであれ、人のことばであれ、それらを使ってコミュニケーションすることなどできない。

ベンジーという犬と長年つきあってきたのに、音声によることばを使うということがなぜ思い浮かばなかったのか、 馬も論理的に考える能力があると思わなかったのか、そのことで自分を責めた。自分が馬にしていることは、 同じことをくり返してやらせていることは、馬をうんざりさせているのではないかと気になりだすまで思いもよらなかったとは、 なんともいらだたしいことだった。

このように(重要なことに)気づかずいたということは、世の中に流されてしまう典型的な例の1つだったか? ある晩、キャサリンとこのことについて話し合っていたとき、私は言った。 『私は自分自身について、ものごとを論理的に考えるタイプの人間だと自分に言い聞かせてきた。 しかし、ほんとうにそうかと疑いが出はじめている。』キャサリンが言った。 『馬について、音声によることばを理解し、ものごとを考える、そこを用いてトレーニングするというクリニシャンや トレイナーがいるとは聞いたことがないと思うわ。アレンが最初でしょう。それに今まで知っているクリニシャンの多くは 、音声による合図を使うことを勧めていないでしょう。』 【訳者記:ボディーランゲージと言葉によりランゲージの使い分けについて言及しているクリニシャンはいる。 使う場合の時期について、それを使う者のスキルも関係するので、いつでも使わない方が良いとは言っていないと思う。】

キャサリンと話しているとき、いったいどうしてなのか、そのことが知りたくなりだした。 キャサリンは言った。『たぶん馬が群の中で使うランゲージはほとんど視覚によるものだからじゃない。』 私は言った。『犬の群でも同じことが言えるけど、ベンジーはたくさんのことばを理解するよ。』 キャサリン入は言った。『なんでそんなにこだわるの?タイミングが重要なのでしょう。あなたが言ったように、 私たちがやってきたことは、すべて、トリックトレーニンをする前に(完ぺきに)やっておかなくてはいけないことでしょう。』 私は言った。『トリックトレーニングじゃあないよ。self-motivated-behaviour、自分からそうしたくなるものだよ。』 キャサリンは言った。『そんなのないわよ。』

私はふくれっ面をしてその場を離れ、コンピューターでアレンのことを調べ始めた。 あのサーカスボールをアレンが売っているか調べた。キャッシュに、何か新しいもの、気持ちを集中させるものが欲しかったのだ。 何か今までとはちがうもの。バラエティーということだ。

とくにキャッシュにはバラエティーが必要だ。なぜなら彼はすごく頭がいいからだ。 あるとき、アリーナ(馬場)の入口を後退しながら入っていくことを教えていた。たいていの馬にとってはかなり怖ろしいことだ。 なぜなら馬の真後ろは視野から外れていて見えないからだ。前方についても、目と目の間の狭い範囲について、額にごく近いところが 見えないのだ。だから馬が人に額をなでられるままにしているということは重要な意味があるのだ。自分に見えない部分をなでさせるということは 、その人のことを信用している、安心しているということを意味する。馬が自分の後に何があるか見たければ、 ぐるりと身体を回すか、首を後に向けるかしなければならない。 なので、わたしたちの馬たちの中には、アリーナの中に後退しながら入っていくことを教えるのにかなりの時間がかかった者もいた。 これをやらせようとすると、馬たちはかなり緊張するのだ。 っしかし、額をなでてやることもそうだが、こういうこと(トレーニング)をするのは、けっきょく、馬にとって良い経験となり、 その結果もめでたしめでたしとなるのである。なぜなら、最終的には馬たちの緊張はなくなり、こういうことを求めても、 すいすいとやってのけるようになるからである。『わかったよ。あなたを信頼、信用しているよ。 馬を取って喰いそうな柵の中に後ろ向きで入れさせようとしても、もう怖がりはしないよ。』

このようにして人と馬の関係はより深いものになっていく。さて次(日を改めてだろう)は、 まずキャsッシュを馬場の入口のところまで連れていき、 後向きで入口から中に入らせるために、入口のあたりまで来たら尻を反対向きにさせ始めた。 そうしたら、キャッシュは(私の意図を理解して)すぐに後向きになり自分から後向きで中に入っていった。

●わたし:たった2回目なのに!
●キャッシュ:そーか、わかったよ。次は何だい?
●わたし:サーカスボールはどうだい?
●キャッシュ:もってきなよ。

・・・とこういうわけで、アレン・ポウグのRed Horse Ranch(というウェブサイト)にたどり着いたというわけだ。 そして、馬もおもしろがって何かをすること、音声によることばを、文章になったものをも理解するようになること、 そして、完ぺきに論理的にものごとを考えることができるということがわかった。 このときのことは、ベアフットのときと同じようなものだ。 濡れタオルを顔にピシャリとやられたようなものだ。 言われてみれば、わかってみれば、あたりまえじゃないか。

私は何年もの間、講演やセミナーで、頭を柔軟にするように、とらわれないように、ひとびとにに話し続けている。 家の中にいないで、足を使う、動かす、身体を動かすようにと、ジョギングに誘ってきた。身体の他の部分と同じように、 脳というものも、使えば使うほど、よく働くようになるからだ。このびっくりするような(当たり前と思われている)現象は 人間だけのものではない。他の生きものにもあてはまる。

馬はフライトアニマル(すぐにびっくりして、怯えて、一目散に走って逃げる動物)である。 ものごとに対して、focus and reason、それが何であるか、集中して(すぐに)論理的に考え判断を下さねばならない。 そうすることは人間以上に重要なことになる。そうすることは、馬が本来もている反射的に行動してしまうという面を 抑えるのに重要なことなのだ。それは、ハサンが、あのインドアアリーナの騒々しいはちゃめちゃな環境の中で悠然と落ち着いていたこと、 やったこと、それらができるために必要なことなのだ。

『かんべんしてください。ミスター・キャンプ。私にはそれは書けません。そういう記事にはできません。動物が論理的に 考えるなんてできっこないじゃないですか。』こう言ったのは、The Dallas Morining News(新聞社)のリポーターであった。 私のベンジー映画の第一作の撮影のとき、その記事を書こうとしていたのであった。 リポーターがそう言うのを聞いて、私はびっくりした。たった今、30分間、あれこれ話して聞かせたというのに、この発言である。 何を話して聞かせたかというと、犬の行動について、その行動の元となる犬のものの考え方について、ベンジーが見せる信じられないような顔、 その表情について、その茶色の目について、その目が語りかけることについて、ベンジーという犬そのものについて、 そして、彼(リポーター)に話して聞かせたことが、あったらいいなというような、情緒的な作り話ではなく、 現実にあることだと(われわれ自身が)初めて気がついたその経緯についてである。 私は自分自身で発見したのである。犬というものは論理的に考えることできるということを。 そして、この1頭は特に優れていることを発見したのだ。

他の犬たちにできないことはない。馬も、鳥も、同じだ。 たいていの動物はベンジーがすることと同じことができる。 そういう理性、知性、そういう心的態度、性質、気質というものを持っている。 ベンジーは人間のことば(ボキャブラリー)を理解できるのだが、他の動物たちは、ベンジーのようにボキャブラリーを 理解できるようになる学習の機会が与えられなかっただけなのだ。

『ボキャブラリーだって!ばかばかしい!』

私は口をすべらせてしまった。というのも、この会話は(先のリポーターのインタビューのちょっと後のことだが) バージニア州のNorfolkで行ったラジオのトークショーでのことだったからだ。(生放送だったので、ついつい、 言ってしまったということだろう)

それでも、ベンジーは、あるボキャブラリーを持っている。そしてキャッシュも同じように(あるボキャブラリーを)持っている ことがわかり始めていたのだった。キャッシュは物事を考えることができた。コンセプトを理解することができた。 ベンジーのようにだ。【訳者記:Concept:コンセプトを理解するとは、ことばやものごとの、概念、意味するところ、 状況というものを、把握、理解できるということ。】 たとえばこういうようにだ。ベンジーに「お手」をさせて、次に、もう一方を求めると、彼はちゃんと反対側の「お手」をする。 あるイスへ向かって歩いているとき、別のイスの方へ行くように言われると、どのイスかを確かめるためにふり向いて、 それから、求められる方向へ向き直して、そっちの方向へ歩きだす。ベンジーは、次のようなことば(単語)の持っている コンセプトがわかっている。ゆっくり、急いで、おちついて(easy)、そのまま(続けて)、not(そうでなく)といったものだ。 これらのことば(単語)が、どのような状況の下に用いられようと、言っている者の意図を理解する。 何かむずかしいことをするように求められると、彼は状況をよく考え、どうすれば求められていることを成し遂げることが できるか考えるのだが、見ていてその様子(考えている様子)がよくわかる。

しかし、動物がこのようなことをする(考えて行動する)のは特にめずらしいことではない。 ヨーロッパの牧羊犬(シープドッグ)もいい例である。牧羊犬は何カ月もの間、自分の判断だけで羊の群れを見張り、世話をする。 群がばらばらにならないようにまとめ、牧草地から牧草地へいつ移動するか決め、道路を横切る必要のあるときは、 自動車が来ていないことを確認するために一度群を止めるなど、すべてを自分で行うのである。

ある馬について読んだことがある。その馬はあることをするように教え込まれていた。 あることとは、草地にいるそんなに多くない牛の群を草地から連れ出し、囲いの中に追い込むというものだ。 この仕事はスクリューワーム(ラセンウジバエ)の検査のために、毎週1回やらされていた。 彼はこの与えられた仕事を細心に熱心に自分で考え、完ぺきにやってのけていた。 そして何週間か経って、あることを考えついたのである。そのあることも、完ぺきに彼1人で考えたことであるが、 毎週、草地から群を囲いに入れて検査をした後また草地に戻していたのだが、草地から囲いに入れたらそのまま囲いに 入れっぱなしにしておいた方が楽であるということだ。そう考えたとおり彼は行動した。 つまり牛の群を囲いから出さなかったのだ。

さてベンジーのことであるが、マイアミのホテルの大広間であった報道関係者の集まりでのこと。何十人ものレポーターがベンジーが演じるショーを見ていた。 ベンジーにとってはいつもやっているお決まりの出し物であった。このショーの最中、今まで起きたことのないことが起きたのだが、 レポーターたちはまったくそれに気づかなかった。ベンジーが状況を把握し上手く事態に対処できなかったら、 ショーは台無しになるところだった。

大広間には中二階につながる階段があり、ベンジーは中二階のフロアにいる。 (階段の一番上と中二階のフロアがぶつかる角・端のあたり) ベンジーは階段の手すりを支える支柱のうちの2本の間にひもでつながれていた。(自由に動くこと移動することができなかったということ) 一階のフロアにはコーヒーカップ(マグカップ)が置かれており、そのマグカップにはひもが結わえつけられている。 そのひもの先は中二階にのびており、その先の方をベンジーが口でくわえている。レポーターたちは中二階を見上げる位置にいた。 ベンジーがやることは、口と足を使って一階のフロアに置いてあるマグカップを二階のフロアに引き上げるということだ。

まず口(頭)を階段の下の方に伸ばしてロープをくわえ上の方に引っ張り上げる。引っ張られているロープを足でフロアに押しつけておき、 口を開き、口(頭)を下の方に伸ばしてロープをくわえ上の方に引っ張り上げる。引っ張られているロープを足でフロアに押しつけておき、 口を開き、口(頭)を下に伸ばして・・・という動作を繰り返して、一階に置いてあるものが何であれ、二階に引き上げるというということだ。 この日に限って、ロープが中二階のフロア(の角・端)からすべり落ちそうになったのだった。この時、ベンジーは自由に身動きできない状態だったので、 いつもロープを押しつけている足ですべり落ちるロープを踏みつけることができなかった。 彼はとっさに状況を判断し、もう一方の足でロープを踏みつけて、ロープがすべり落ち続けるのをとどめたのである。 そして何ごともなかったかのように仕事を続けたのだった。

映画の撮影をしているときでも、演技しているその内容について、
自分の役割について、ちゃんとわかっているのだ。

シカゴのトークショーではこんな話をした。
ベンジーシリーズ第1回作の中ですごく重要な場面の1つにこういうのがあった。 ベンジーが1人であてもなく街をさまようという場面だ。彼は子どもたちが危機におちいっていることを知っていたのだが、 そのことを家族の者にわからせることができないでいた。家族の者は、子どもたちの危機を知らせようとするベンジーをしかりつけるのだった。 このシーンが上手くいくためには、いや、この映画そのものが成功するためには、 ベンジーのおかれたこの苦境に対して観る者が心をうごかし、ベンジーに感情移入するようにさせねばならなかった。 彼のそぶりが、最愛の友を失ったかのように見えねばならなかった。彼の意気消沈した気分というものが、その茶色の大きな 目の表情から伝わらねばならなかった。そして観客の心をつかまねばならなかった。

この一連のシーンのリハーサルのとき、あまりにうまくできたいたので、私は、すんでのところで、 この場面を台無しにするところだった。そのとき私は、撮影場所の上空12mにいた。 カメラ、カメラマン、そして私は移動クレーンのバケット(人が乗る囲い)の中にいた。 この機械は電線を修理する会社などが使っているものだ。ベンジーのトレイナーであったFrank Inn(フランク・イン)は、 地上でベンジーに向かって叫んでいた。
『どーしたんだ!頭を下げろ!まったく!』

まさに、ベンジーは最愛の友を失ったように見えた。完ぺきだった。 そういう彼を(私は)信じていた。しかし、あのように、しかられる、ののしられることで彼が傷つくのを見るにしのびなかったのだ。 私はバケットを下に降ろしてくれるようたのみ、現場へ歩いて行った。そして、フランクに、ちょっと話があるんだと言った。

フランクは目をまん丸くして、いったい何?という顔で言った。 『いったいどーしたの?あなたのお望みのとおりじゃないかい?』 私は言った。『いや、完ぺきだよ。だけど、その、やり方が良くないのじゃないかと・・・』 フランクは言った。『いったい何を言っているんだ?』 私は言った。『あんなふうにベンジーをしかるのが、気分悪いんだ。』 フランクは、ああ、まったくわかっていないというように天を仰いで言った。 『ふり向いてベンジーを見てごらん。あれがしかられている犬に見えるかな?』

ベンジは悠然と耳をかき、私の方を見上げて、大あくびをした。『よく見てなよ・・・』とフランクが言った。 そして、彼(ベンジー)を見ているように身ぶりして、また(ベンジーを)しかりつけはじめた。 そのへなっとした耳をしたスター犬は、がっくりと頭を下げ、目は伏せ目がちとなり、今まで見た何よりも あわれっぽく見えるようになったのである。そして、フランクが(叱るのをやめ)ふつうのテンションに戻り、 ただ、OKと言っただけで、ベンジーは感情のスイッチが切り替わったかのように、あわれっぽい様子はなくなり、 一度ぶるっと身体をふるわせ、しっぽをふり、フランクからの次の指示を待っていた。 ベンジーは、いま、ここで起こっていることを完ぺきに理解していた。フランクはベンジーを叱っていたわけではなかったのだ。 ベンジーは、ことば(の意味そのもの)を理解していなかったかもしれないが、 演じるということについては、完ぺきに演じていた。

彼は、何ごとであれ、すぐに気づいて、わかってしまうというところがあり、ときには、 フランクでさえ、あっと驚かされることがった。撮影のときに使われるカットということばについて、 それが何を意味するか彼が理解したということに気づいたとき、我々はあっ!と思った。 そのとき、我々はベンジーの目の高さに合わせてしゃがみこんでカメラの周りにいた。 そのシーンの撮影が終わり、フランクは(自分の)身体について毛を取っていたが、 きゅうにベンジーの姿が見あたらないことに気づいた。 そのとき、撮影クルーの1人がクスクスと笑いながら『あなたの犬は賢い。』と言った。 ジョーがカットと言ったとき、ベンジーはエアコンのところにどっと走り出して行ったのだった。

エアコンは彼のためにあるということをすぐに理解してしまったのだ。 エアコンは彼が暑さでハーハーしないために用意されたものであり、カメラが回っていないときは、 エアコンの前は彼がいるべき場所であると心得ていたのである。

しかし、こういう話、出来事、それらに似た、たくさんの話をして聞かせても、 近日上映となる映画のテキサス北部での撮影風景についてレポートを書こうとしていた(ダラス・モーニング・ニュースの) レポーターが身にまとっていた鎧にほんのわずかのキズもつけることはできなかった。 翌日、新聞の一面に映画の記事が載った。その記事の内容は、ダラスの7才の女の子と9才の男の子が映画デビューすると いうことだけだった。出演する犬についてはいっさいふれられていなかった。ベンジーが考えることができるということ、 筋道立てて考えることができることについてはまったく書かれていなかった。

動物はそんなことできないというわけだ。犬もできない、馬もできない、そういうわけだ。

そんなことをAllen Pogue(アレン・ポウグ)に言ってもむだだ。そんなこと言っても彼は何とも思わない。
聞く耳持たない。そういうことを言う者には、彼の馬、Hasana(牝馬:ハサナ)について話すだろう。

『われわれは、若い馬たちをリバティートレーニング(リードロープでつながず丸馬場の中で自由い動ける 状態で行うトレーニング)するのだが、そういうトレーニングをする時期が来るわけであるが、 その若い馬たちと一緒にハサナも丸馬場に入れる。ハサナは、その若い馬たちが、それぞれ自分がいるべき位置・場所にいるように指示、 監督するのだが、その仕事ぶりは人が中に入ってやるよりずっと上手なのである。もし、何頭かいる若い馬たちの中から 1頭が自分のいるべき場所から移動してしまったら(ゲイターがしばしばやることだが)、ハサナはすぐに走って行って、 かれのすぐ横に並び元の位置に押しもどすのである。もし、その若い馬が抵抗するなら、ハサナもより強硬な姿勢でのぞむ。 自分が群の女ボスであることをわからせるべく睨みつけたり、あるいは、若馬が自分のすべきことをするまで(軽く)咬み続けたりするのだ。 このように彼女は自分のすべき仕事をするのであるが、その正確さ、その仕事の内容をよく理解している様子は、驚くべきことであり、 彼女が他の馬たちを教え導く能力の高さはすばらしいものであり、そのために大いに助けられている。』

すべてではないにしても、多くのトレイナーは、食べ物をごほうびとして用いるという点については、アレンに賛成していない。 それと、すでに言及したことだが、多くの者は、音声によることばを用いることを避けている。 しかし、アレンは音声によることばも食べ物のごほうびも用いる。 その目的は、(馬の)知力を高めるため、良い関係を作るため、コミュニケーションのため、そして楽しい時間にするためである。 人びとはあれこれ言うが、自分の目で結果を見れば、その価値は明らかとなるだろう。

キャサリンは(私の考えと)ちがうが、私はアレンの方法を、self-motivated behaviour(セルフ-モチベイテッド・ビヘイビア) と呼びたいと考える。なぜかといえば、あることをする・しないということについて、馬自身が自分で判断して決める、 そういうやり方だからだ。そして、馬が、しないという選択をしたとしても、そのことにより、馬が不愉快な目に合うことも、 苦痛に感じる、苦痛を受けることもないのだ。

繰り返し言っておかねばならないことは、食べ物のごほうびを使ってのトレーニングを始める前に、好ましい関係を築いておかねばならない ということだ。その関係は、馬が自分で選ぶということ、信頼、尊重、リーダーシップというものによらねばならない。 つまり、馬というものは、若いうちに人間との関わりを持たねばならないということだ。 アレン自身、自分の子馬(foal:1才未満)についてはそういしている。 【訳者記:人間との関わりを持たせるとは、馬を教育する、トレーニングするということ。最初のそれを、かつては、今でも、 ブレーキングと言っているが、近年、スターティングと言うようになってきている。】 そのようにしないでいると、馬も、その馬の持ち主も、ごほうびに頼るようになってしまう。 そういう関係になってしまうということは、人馬双方にとって不幸なことだ。 ひとたび、馬が人に対して、聞く耳を持つ態度になれば、そのとき、馬の脳は活動を始めているのであり、 そういうとき、まさにタイミングの良いときに、ちょっとごほうびを与えることで、その人に対する、その馬の注目度は高まり、 思考力も高まるのである。

こんなことが起こったらすばらしいと思わないか! 6頭が放牧地にいて、その中に入っていき、ある馬の名前を呼ぶと、中の1頭が頭を上げてこちらを見る。その馬がまさに名前で呼んだ その馬だったら!あるいは、頭を下げて、と言うと頭を下げるとか。あるいは、大きな口でニッコリしながら近づいてくる、 そういう挨拶をするとか。この、挨拶というのが、アレンが馬にさせていることの中で私が初めてキャッシュに教え始めたことだ。 じっさいには、その様子というのは、ニッコリというより、歯と歯ぐきをむきだしにして、私にくちびるを見せようとしているという ものだが。じっさいに触れられたらべたべたになってしまう、大口でのキスをしようとしているかのようだった。

馬のくちびるは、やわらかく、パタパタ、ぱくぱくとよく動く。 そのくちびるを使って、ものを選り分けたり、しらべたり、身づくろいしたり、一房の草の中からゴミを取り去ったり、人の手のひら の中にあるごほうびを取り出そうとして、指を開かせようとしたりする。この(私の)手のひらを開かせようとすることから、 くちびるでニッコリするという(笑う)ことを教えるのである。 キャッシュが、ごほうびを手に入れようとして、私の手のひらを開かせようとして、くちびるで私の指をつついてきたら、 わたしは手を高く上げて『スマイル:ニコッとしなさい。』と言う。おどろいたことに、私のこの動作に対して、 キャッシュはすぐに期待どおりの動作で応えた。そして、今では、(ご褒美がなくとも) 手を上げて、人差し指を上に向けて何度かはじくと、金魚がパクパクと口を開くように口を開けるのである。 そして、上げた手を下げるまで、ずっと、口をパクパクと開けて笑っているのである。

ときには、私が求めていないのに、自分から笑いかけてくる。 我の強い馬がする典型的な行動、ごほうびを欲しがる行動、ポケットの中からごほうびを取り出そうとして、 ポケットをつついてくる、押してくる、そういう行動があるが、キャッシュは近づいてきて、自分から笑いかけるのである。

キャッシュは『ごほうびをいただけますか?』と言っているわけである。
当然ながら私は『もちろん、いいとも。』と応える。

丸馬場でサーカスボールを使って1時間もトレーニングをしたあと、キャッシュにも私にも休みが必要と思って休憩にした。 私は丸馬場の向う側まで歩いて行き、一番上の横木に腕を回してだらりとたらした。キャッシュはそれまでいたところに立っていた。 ボールから90cm〜1.2mほど離れたところだろう。そこで私の方を見ていた。私が再び彼に視線を向けると、彼はボールの方を向いて、 2歩ボールに近づき、ボールを(鼻先で)つついた。1回、2回、3回、4回とつつき続けた。 ボールは3〜3.6mほどころがされたことになる。そして彼は私の方を向いて、あの、いつもの、頭を傾けた、 何か問いたげな様子で私を見ていたのだった。 それは『ボールをつついて動かしたんだから、ごほうびをくれてもいいんじゃない?』と言っているのだ。

それを見て私は大笑いしてしまったので、グッド・ボーイと声をかけてやれないほどだった。
彼はごほうびを手に入れた。
じっさい、彼はボール遊びを楽しんだし、私も楽しかった。

2−3日後、キャッシュと私は、ほんとに、キャッチボールをして遊んだのだ。
私が彼に向けてボールをころがし、彼は私に向けてボールをころがすのだ。
なんてクール(すてき)じゃないか、そうだろう?

キャサリンと私の、おどろくべき発見の旅は続いている。アレンのおかげだ。
アレン、ありがとう。 うちの馬たちはあなたに借りがある。 そういうわたしたちも、あなたに借りがある。

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