人間と馬がきづなで結ばれるなど不可能だと思う人たちがいる。
犬とならできる、猫となら・・・たぶんできる、だけど馬ではむり、というのである。
しかし、私はこういうきづながあることを、日々、あたりまえのこととして、われわれの馬たち(群)の誰とでも経験している。
かれらがすることでわれわれとのきづなを確認する、そういうことがあるのである。そして、そのことが私を(その日)楽しく
、嬉しくさせる。そして、そのことが私を(一週間)楽しく、嬉しくさせる。(そんな毎日であるということ)
マーティー・ベッカー博士(Dr. Mrty Becker)が、彼のすばらしい著書である、The Healing Power of Pets(ペットが人をいやす力)
の中で言っている。『きづなというのは、人間と他の動物との間にある一貫した関係であるが、それは何のためか
ということがわかっていなくてはいけない。この強力な関係によって生み出されるものがあるわけだが、わたしはそれにいつも
心を動かされる。そういう心にひびくものの中で最も感動を覚えるのは、自分とはちがう種である相手に対して、
慈しみの心を持って接する、保護し、育てようとする心根がいかに大切であるか
ということを教えられるということである。』
人間と馬との間にきづながあり得るということを否定する人たちは、
ベッカー博士の・・・自分とはちがう種である相手に対して、
慈しみの心を持って接する、保護し、育てようとする心根がいかに大切であるか・・・という考えをも否定するだろうか。
先週のこと。私は三脚とビデオカメラを持って急な斜面を下っていた。ハシゴから落ちてちょっと肋骨が痛かったのでちょっと大変な作業になっていた。
私はうめきながら群の行動をビデオに撮ろうとカメラを設置しようとしていた。6頭のうち5頭は、じきに、あっちこっち動きながら、
急な斜面を下りて私の方に向かってきた。そのとき、マリアだけは丘の上でじっとしていた。
しばらくすると、マリアが私の後に来ていて、うろうろ、そわそわしているのがわかった。
彼女は私の後(背中)のところに来て、そこにいて、私のシャツの袖をくちびるでモグモグとかじり、そして、その後、
おどろくべきことが起こったのだ。かのじょは私の腕とあばら骨の間(わきの下ということだろう)に鼻をそっと入れて、
私のあばら骨に温かい鼻面を押しつけたのだ。かのじょが鼻面を押しつけてきたそこは、まさに痛みを感じていたところだった。
かのじょは、そのまま、しばらくの間、そうしていた。私がビデオをスタートさせるために位置をずらしてしまうまで、
かのじょはずっと鼻面を押しつけていた。それは、そのままずっとそういしていたかった、そんな時間だった。
どうして彼女はわかったのだろう?
それより、どうしてかのじょは私のことを心配してくれたのか?この馬は、キャサリンと私が(かのじょに)初めて会ったとき、
人間との関係などまったくない状態だったのだ。これこそ、きづなである。きづなが生まれたのだ。
キャサリンと私は、いつも、きまって、放牧地で時をすごす。特別な目的があるわけではない。
このきづなを太くするためである。この関係(きづな)はジョイン・アップによって生み出されてものであり、
馬に対して、われわれと一緒にいるかどうか、それを選ぶチャンスを与えたのである。
そして、そのきづなは強くなり続けている。なぜかといえば、つねに放牧地でかれらと時間を共にしているからである。
われわれは良いコミュニケイターになり続けている。馬たちとの関係もより良いものになり続けている。
鞍をのせ馬に乗る、馬場で乗ること、外乗すること、これらは重要なことであるが、もっと重要なことは、放牧地でのこと、
そこで時間を過ごすこと、ただそこにいること、こういうことだと思っている。
そうすることで、人間にとっても、馬にとっても、すばらしいことが起こる、なされるのである。
そうすることで、きづなは強くなり続ける。そうすることで、馬のこと、そのクセ、習慣、ことば、それぞれの性格、
遺伝的傾向、これらがわかる。何をどうすれば(その)馬がどう反応するかいうことが読める、わかるようになってくる。
人間側のリーダーシップはより確かなものになり、馬はより人間をリーダーとして尊敬するようになる。
人間の側にも馬の側にも恐怖心がなくなる。(相手に対する、自分に対する)信頼、自信というものが生まれる。
これらのことは、どれひとつとっても、インフルエンザの注射をするようにすぐに得られるものではない。
ある日、目を覚ましたら、そうなっていたということはない。そうだったらいいな〜、とどんなに思っても、そういうことは起こらない。
本やDVDがいろいろな知識や洞察力をあれこれ与えてくれるとしても、じっさい、そこにいるということ、
じっさい、それをやるということ、そのときのことを吸収すること、自分で直に学びとるということ、こういう経験に勝るものはない。
ともかく、放牧地にいること。そして、馬の慎重さ、判断力、それらを観察し、研究し、それらに対してこちらから反応する。
こういうことから学ぶことは大なのだ。だから、人にたのんで、お金を払って、そうする余裕がるにもかかわらず、
給餌や馬房掃除をしてもらうことをしないのである。むろん朝寝坊したいときもある。とくに夏。子どもたちの学校は休みで、
夜明け前に起きなければならないということがないときは。しかし、馬たちの世話を、給餌と糞だしを自分たちですれば、
1日のうち2−3時間は費やされることになる。日々、こういう時間を取ることで、それぞれの馬の個性がよくわかるようになり、
リーダーシップというものについても、それぞれの馬が他の馬たちに、どういうやり方でリーダーシップを見せるかということが
わかってくる。馬は1頭1頭、ユニークであり、どのくらいわずかな合図で理解するか、しないかということが、
じわじわとわかってくるのである。こういうことによって、われわれが(馬の)群のメンバーであるということを確信できるのである。
そして、それはずっと続いているのである。
『時間が足りないの。』と、ある女性が私に言った。
『それなら、何か別なものにしなくてはいけませんね。あなたに対してリーダーシップを求めたり、きづな、思いやりというものを
求めたりしない、あなた自身も、その動物の健康について、幸せについて理解する必要のない、そんな動物にしないといけませんね。』
と、その女性に言いはしなかったが、そう思ったのはそのとおりだ。わかるでしょう。
わたしは(ずっと)学び続けている。馬と時間を分かち合うということは、いろいろなことを教えてくれるのです。
気づかせてくれるのです。何ごとかをするとき、ああやったらどうか、こうやったらどうか、ということがあるわけです。
そして、その結果、何が起こるか、何か不都合なことが起こるかもしれない。そういうことを、先へ先へと考える、問いかける、
予想する、そういうことをしなくてはならないのだが、馬たちは、そのことを気づかせてくれる。
ほんの昨日のことだ。
放牧地を持って、そこで馬を飼っているというメリットによるものだが、いい経験をしたのだ。
それは、たまたま、大きくて筋肉隆々のポケットに突き飛ばされてしまったということだ。
かのじょはペイントホースで、スクリブルスもそうだが、大きな馬だ。背が高いというのでなく、
ただ大きいのだ。たぶん1200ポンド(550Kg)ぐらいあるだろう。
それは彼女が悪いのではない。悪いのはわたしだ。
私は放牧地で地面に座って彼女を見上げるようにしていたのだが、そのとき、ことが起こったとき、
彼女のせいではないということはすぐにわかったのだが、それでも、私の最初の反応、感情は怒りであった。
私は彼女を怒鳴りつけてやりたい気分だった。きっと誰でもそうだろうと思う。誰でも、ポケットがやったことと同じことをしたら、
きっと、どうしてそういうことになったかなど少しも考えないで、ムチで叩くかもしれないと思う。
そういう人たちは、かれら(人間)ときづなを結びたい思うのでなく、(人間と)一緒にいたい、良い関係でいたいと願っている馬でなく、
かれら(人間)を怖れている馬を持てばよい、そういう馬にすればよいのだ。
そして、そういう馬が、リーダーに頼るのでなく、自らがリーダーシップを持とうとしても、それは、かれら(人間)
がそうさせたのである。
私が突き倒されたのはこういう経緯である。
うちの馬たちは、それぞれが自分のものはこれだとわかっている飼料入れ用の小さな入れ物を持っている。
(それらは放牧地の中に置いてある)まず最初に出されるのは前菜前のアペタイザーで、スコップ半分のペレットであるが、
どの馬も、だいたい々時間で食べきる量である。これについては、スキーターは例外であるが、そのことは今回のこととはべつのことである。
次は前菜で、少量のアルファルファ、1頭につき、押しつぶしてフレーク状にしてある1塊の半分である。
これは、放牧地の丘のてっぺんあたりの地面に、10−11カ所にわけて、それぞれが比較的近いところに置いておく。
このようにして、あちこちにばらまくようにするのは、どの馬であれ、自分にあてがわれて量以上のアルファルファをひとり占めしないように、
どの馬も、イス取りゲームの中で、はみ出されないようにするためだ。
昨日は、どうしてそうしたか何も覚えていないのだが、アルファルファの小山のいくつかを、いつもの間隔よりも近い距離に
置いてしまった。そのいくつかの小山が接近して置かれているあたりに4頭が集まってしまい、自分の取り分を多くしようとして張り合っていた。
そのとき、いくつかの小山を引き離して置き直すべきだったのだが、私はそれをせず、押しつぶさている(ペレット状の)アルファルファを
引きはがす作業を続けていた。群を支配しているスクリブルスがポケットを咬んでやろうとしたのでポケットは跳び退いた。
そしてハンサムにぶつかった。ハンサムは急にふり向いて蹴ろうとした。ポケットはまっすぐ前に逃げるしかなかったが、そこには私がいた。
周りには敵対する馬たちがいたので、それらから逃げるためにそうするしかなかったのだ。
しかし彼女は私を避けようとした。じっさい私の肩にわずかに触れただけなのだが、それでも私を突き倒すのに十分なパワーだったのだ。
状況は単に狭いところに集まり過ぎただけなのだった。そのため安全を確保できる、礼儀作正しい行動ができなかったのだった。
とりわけ、咬まれる、蹴られるという危険にさらされ、彼女のアドレナリン値が上がったのだ。
こういことについてよく承知しておくべきだったのだ。
こういう経験をしたからには、尻にアザを作ったからには、わすれることはないだろう。
しかし、彼女の顔を見れば、うたがう余地なく、彼女がどう感じていたかがわかる。
それは『オー、マイ、ゴッド!あらっ、わたし何かいけないことをしたかしら?』というところだ。
私が放牧地の中に入ったとき、他の誰よりも先にやってきて私に挨拶するのはポケットだ。
私とポケットとのきづなは強いものなのだ。しかし、このとき、私が突き倒された後の何分かの間、ポケットに近づくこともできなかった。
彼女は(私が近づくと)何か罰を与えられるのではないかと思っていたのだ。ポケットに怒りを表したことについては、
ほんとにほんとに、恥ずかしいことであった。で、最後に、彼女に近づけたとき、彼女のひたいをなでてやりながら、
何も困ったことはないよと言ってやった。尻のアザは別だけども。そして、今後は、アルファルファの小山を近づけすぎないで、
あちこちに置くということをけっして忘れないと誓ったのだ。
ある風の強い日のこと。群でいちばん支配的なスクリブルスが、ふだん以上に支配的にふるまっていた。
神が彼に与えたもうた、他の誰よりも先に食べるという権利の行使、この放牧地のボスであるということ、
そういうことについてである。私はペレット(固めた飼料)を持って放牧地に入っていった。
彼の飼料入れの桶のあるところに向かって歩いて行った。
彼は、この馬(ポケットのことだろう?そばに寄ってきていたのだろう)に向けて頭をグイッとふり向け、
それから、何の意図もなく、私の方に身を向けて、頭をグイッとふり向けた。そして、後肢を小さく蹴りあげた。
彼と私の距離は3−4mあったので、蹴りが届くことはなかったし、蹴るつもりもなかったのだ。
その行動は、ただなんとなくやってしまった支配的な行動にすぎなかったのだ。
彼は(何となく?ペレットを見て?)ちょっと夢中になっていた、浮かれていたのだ。
私は歩くのを止めて、その場に止まって、風船のように身体を大きくふくらませて、彼の目をまっすぐ見すえた。
まゆ毛をつり上げ、指を1本かれの額に向けてやった。そして、その場に立ちつくした。
『そんなことしても私には効かないよ!』彼の顔に、チェッ、という表情が見てとれるようだった。
チェッという声(音)が聞こえるようだった。私は吹き出すのをこらえるのがやっとだった。
少なくとも30秒はその場に立ったままでいた。
この30秒というのは、食べ物が彼のために運ばれてくるとき、彼がじっとしていられる時間よりずっと長い時間なのだ。
しかし彼はじっと立ったままでいた。そして頭はほとんど地面に届くくらいまで下げられていた。これはすごく従順を示す姿勢である。
彼はこう言っているのである。『いやー、すまなかった。とくに意味はなかったんだ。ほんとうさ!
ちょっと風が冷たかったからね。ちょっと、魔がさしたんだ。』
私はまた歩きはじめ彼のそばに行って額をなでてやり、飼料桶に食べ物を入れてやった。
声や音に出すことはない。身体を使った動作で怯えさせる、支配するということもない。
群の中で、他者との関係の中で、もっとも大切なのはお互いの関係、きづななのである。
こういうことは、放牧地において、どの馬との間においても起こることだ。
毎日ということではない。時々ということだ。毎週かならずあるということでもない。
しかし、こういうことは起こることなのだ。こういうことがあることによって、
もろもろんもことをさらに良い方向に導いていくのだ。
放牧地に飼料を運び入れること、糞を片付けること、これらに費やす時間の他、数時間は岩の上に座って馬たちが互いにどういう
行動をしているかをただ見ている。あるいは放牧地から離れているデッキの上で、朝はカプチーノ、夕方はワイングラスを持って
眺めている。耳をひょいと動かすしぐさ、鼻を動かすしぐさ、それらが何を意味するかを見て学ぶのは実に魅力的なことだ。
馬同士の位置関係、身体のあり様、そして、そういう関係、あり様がどういう行動につながるか、それらを見ているのは魅力的だ。
群の中の支配的な馬が、何ごとかについて、とくに行動せず、成り行きにまかせるときもあれば、何らかの口出しをするときもある。
これらに気づき、その理由を知ることができる。これらのことどもをよく理解することによって、馬の用いることばについて、
そういう馬に対してどのように自然にふるまえばいいかについて、人間の側の能力をものすごく高めてくれる。
たとえば、ほんのわずか、お互いの相対的な位置関係を変えるだけで、そこにはいろいろな意味があり、それを相手に
伝えることになる。あることを伝えるために、かつては腕全体を使って大きな動作でしていたのが、
そのときにふさわしい態度、意識、気持ちを持ったうえで正確なやり方をすれば、指1本を軽く動かしただけで、
ふっただけで、十分に伝えられるようになるのだ。
かれらは馬であるから、我々の側が彼らの本質、特質、本性、自然な姿がどういうものであるかについての理解、認識が
高まることによって、かれらのわれわれに対する尊敬の念、信頼、強いきづなというものが、さらに強固になっていくのである。
このことは、単に馬が本来そういう性質のものだというだけのものではないのだ。
どんなときでも、人間が馬にしてほしいと求めることを馬がしないとき、拒否するとき、その原因は人間が伝えようとしていることを
馬が理解できないからだということを(われわれが)認識すれば、そう認識できるようになれば、そのこと(経験)は
計り知れない価値を持つことになる。われわれが馬のことばを理解し、上手にコミュニケーションすればするほど、
かれらは喜んでわれわれの求めに応じてくれる。そして互いの関係(きづな)はより強いものになる。
ほぼ1年ほど前、自然放牧地を完成させてからというもの、わたしたちの日常はこんな様子である。ときどき、
他所の馬たちがどのような生活をしているか忘れてしまうことがある。
最近、ふつうのやり方のボーディング・ステーブル(馬場があり個人から馬を預かる施設)を訪ねた。
上等のステーブルであり、ドレッサージュホースとショーホースがたくさんいた。
私は急に悲しくなり、走り回って各馬房の鍵を開け、蹄鉄を外してやりたくなった。
そして、すべての馬をなでてやり、ジョイン・アップし、かれらの声を聞いてやりたかった。
ステーブルのスタッフに『この馬のオーナーはどのくらい自分の馬に会いに来ますか?』と聞いた。
その馬はサラブレッドと何かの中間種だった。悲しげな眼をしていた。どんよりとした目だ。
彼女は前へ後へ行ったり来たりを繰り返していた。私は馬房の前にしばらく立っていたが、彼女は
私を見ようとしなかった。ただ、行ったり来たりしていた。
●そうですね。少なくとも週末毎に1度は来ます。ときには2回来ます。
●給餌は誰がするのですか?
●われわれです。スタッフがします。
●ストールは?(馬房の掃除は?)
●スタッフがします。1日に2回です。
●馬房から外には出しているのですか?
●もちろんです。1日に4時間。保証します。
●保証ですって、んーん?
●もちろんです。
●他の馬たちと一緒にですか?
●いや、そんあことはしません。一緒にしたらケガをします。
●彼女にはトレイナーがいますか?
●はい、火曜日、木曜日にやってきます。
●彼女は十分のリーダーが誰なのか、どうしてわかりますか?
●そうですねえ、トレイナーがリーダーでしょう。リーダーというのであれば。
●それでは、オーナーは?(オーナーは馬にとってどういう存在か?)
私の質問に答えてくれていた人(女性)は、私がアホでないかという顔で私を見た。
しかし、私は答えを聞かねばならない。
●オーナーはショーに出るとき乗るライダーであり、もちろん、支払いのために小切手にサインする人です。
●わかりました。(そう言って私は馬房が並ぶ前をずっと歩いて行った)
どこも似たり寄ったりだった。馬は馬房に入れられ、群の仲間から遠ざけられている。ショーへ出るストレスも同じようなものだ。
(そのストレスのため)行ったり来たり、身体をゆすり、桶などをかじり続ける、壁を蹴るものもいる。どの馬房も
私の知らないベッディング(敷きもの、寝藁などの代用品か?)が敷かれていた。尿を吸収させるためなのだろうが、
匂いはなくなっていなかった。その匂い(物質、アンモニア)は馬の肺の中に入っていくのだ。そしてほとんどは蹄鉄を履いていた。
●この馬はベアフットですね。蹄鉄を履いていませんね。
●変わったオーナーですよ。馬は蹄鉄を付けるものだということが理解できないのですよ。
●あなた自身は自分の馬を持っていますか?
●その必要はありません。世話をしているだけです。
これを見て、ヨットでセイリングしていたときのことを思い出した。
ベンジーシリーズが絶好調の頃である。Fort Launderdaleマリーナにセイルボートを持っていた。
いつも不思議に思っていたことは、私のボートは小さなものだったが、ものすごく大きなボートを持っている人たちは、
そのボートに乗って出かけるということをしないのである。ボートは停泊しているだけだ。
こういうオーナーは、停泊させるため、ボートの手入れ、管理、エンジンを回して整備しておくこと、
こういう費用を払いながら月に1度やってきて、大きくて高価なヨットをただのホテルルームとして使うだけなのだ。
けして海に出て行かないのだ。ボートをボートとして使って楽しまない。
それは、ただそこに来て泊まるだけの場所であり、自慢の種なのである。
そのときは、なんてこったとフラストレーションの種であったが、しかし、それはボートであった。
ボートであったことを思えば、まあ、悪いことではない。グラスファイバーで作られた生命のないもの、機械だからである。
で、オーナーがそれにお金をつぎ込みたいのなら、それは別にかまわない。その人のお金なんだから。
しかし、馬はボートとはちがう。
馬は生きもので、呼吸しているのだ。感情もある。心配もする。
そして何百万年にもおよぶ年月を経てきた、遺伝されてきたシステムを持っているのだ。
ボートは船着場につなぎっぱなしにされても、行ったり来たりしない、ストレスがたまったりしない。
一緒にいるべき群も必要としない。ボートは、ピカッと光るものがあっても、それが何であっても、
それに襲われるのではないかと怯えることはしない。ボートなら、1日中、そして夜になっても、
ずっと動き回ることができるのにもかかわらず動かないでいるのはかまわない。
ボートなら、オーナーにほっておかれたとしても、幸せでも不幸せでもなく、健康でも不健康でもない、そういうことは感じない。
しかし、馬はちがう。馬は感じる。感じ取るのだ。
マリアはかつてそうだった。つまり感じなかった。
しかし、今のマリアはちがう。かつてのようには思っていない。
彼女に尋ねてみるがいい。どっちがいいか、答えてくれるだろう。
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