目次へ戻る THE SOUL OF A HORSE
馬の心を知る
津別ホーストレッキング研究会

第13章 Off with the Shoes (蹄鉄を脱ぐ)

あの丸馬場の中でキャッシュが私に対して気を許し、私のすぐ後のところまできて、私の肩に鼻先をくっつけてから1年半たった。 あのできごとが私の人生を変えた。そして、彼のそれも変わった、ということであってほしい。 あのできごとがあってから、この馬をいかに扱うか、いかに関係を築いていくかを見つけるべく、さらに学び、深く研究を 続けるようになった。この姿勢は、これが・あれが正しいやり方だという他者の考え方をなにも考えずただ受け入れるというものではない。
蹄鉄のことについては(馬を飼い始めた)初めの頃から気になっていたのだ。 皮肉なことに、その心配とは、金属の靴が打ちつけられているそのことに対してではなかった。 心配のたねは、蹄鉄を付けられていたのが前肢2本だけで後肢は裸だったということだ。 我が家から地元のクラブのアリーナ(馬場)まで1/4マイル(400m)を硬いアスファルトの上を 歩かねばならなかった。私は後肢に蹄鉄を付けずに大丈夫かと心配したのだ。

『前肢に必要なら、なぜ後肢には不要なのか?』といろいろな人に聞いた。一般的な回答は、 『馬の体重・不可の60%は前肢にかかっているからだ。』というものだった。 馬に関わり始めた頃は気おくれして、(前肢と後肢にかかる)負荷が20%ちがうということが、 どうして蹄鉄を付ける付けないということになるのか?と疑問をなげかけることができなかった。 この疑問については未だに納得のいく回答を得ていない。

たったの1年半前、この疑問に対する私の考え方はこういうところにいきついた。 つまり、コンクリート、アスファルト、土、岩場、何であれ、硬い面に蹄を打ちつければ蹄の壁にひび(クラッキング)が入り、 そこから破壊され、ぐずぐずにくだけて(クランブリング)しまうというものだ。だから蹄鉄は必要なのだという考え方である。

その時点では、このような、ひびわれ、破壊、くだけてしまう、ということが野生馬では起こらないことを知らなかった。 野生馬の蹄の壁や底は鋼鉄のようなのだ。なぜそうなのか、それには理由がある。しかし、そのことについて話してくれた者は 1人もいなかった。 」蹄鉄というものは蹄に害を及ぼす原因である(となり得る)ことについて私に話してくれた者は1人もいなかった。 私が馬に関わり始めたとき、その状況は他の人たちとまったく同じであった。そして、その同じ状況の人たちに、 いろいろなことを尋ね、質問していたのだった。

私は深く掘り下げ続けた、本を読み続けた、学び続けた。キャッシュがいたからである。 私は心の底からこの馬を大切に思っていたからだ。彼は私を選んでくれた。そして、彼が生きていくために必要なことの多くを 私にゆだねたのだから。私は彼のためにできる限りのことをしてやるより他はないではないか。 ということは、私は自分で知識を得る必要があるということであった。

それにしても、そう遠くはないあの頃(わずか1年か1年半ほど前)、馬というものは蹄鉄を履いていなくてはいけないと ほんとうに思っていたのだが、いったいどうしてそう信じていたのかわからない。 そういうものだ、馬は蹄鉄を履いているものだ、ただそう思っていただけなのだ。 野生馬あるいは過去においては、蹄鉄というものがなくても馬は生きていけたわけだが、 なぜだろうか?と、その理由を調べようとしなかった。そのことが心にひっかかっている。 私は自分のことを、まずまず知的な人間であり、好奇心のある方だと思っている。納得にいかない何ごとかに対して、 質問することなしに受け入れてしまうなんてことが私にあり得るだろうか?

何かを怖れているのだ。気にしているのだ。しかし、そういう心理は誰でも共通である。 たくさん馬を持っている人たちについても言えることだ。

私は単なる初心者だった。初心者という者は、自由にものを言う人、はっきりと(意見などを)しゃべる人に対して、 それが誰であっても、喜々として従うものだ。

アンディー・アンドリュー(Andy Andrews)が、リーダーシップについてのセミナーで言っていること。 リーダーとなるまず最初のステップは、行動する者になることである。 その場にいる他の者たちが肩をすくめている(何もせず、何も言わない)とき、 何ごとか行動すること、何ごとか言うことである。

みんな、今夜はどこで食べようか?
さー、わかんない。君はどこがいい?
僕はどこでもいいさ。ジョン、君はどうだい?
うーん、僕はどこでも」いいよ。ビル、君が決めてよ。
えー、どこでもいいよ、ほんと。

『さっさと決めろ!行動する者になれ!どこでもいいから名前を出せ!そうすれば、そのとたん、君がリーダーなのだ!』 と、アンディーは叫んだ。

行動を起こせ。一歩前へ出ろ。声を出せ。そうすれば、他の者たちは、行動を起こした者に従うのだ。 こういうことを2−3回やるのだ。そうるれば、その次、何かしら決定をしなくてはならないことがあるとき、 かれらはあなたに決定してもらおうとしてあなたを見るのだ。

あなたの下し判断が良かったか悪かったか、健全なものであるかどうか、あるいは、まともな判断かどうかであせ、 それはどーでもいいことである。(リーダーとなるためには)まず、ただ、行動を起こさねばならない。一歩前へ出なくてはならない。 そして、残念ながら、あつかましい者がいて、何ごとかを言う。その者が何ごとかを言った。言ったことについて知識があったのかなかったのか? しかし、ともあれ、他の誰も声を出さなかったとき、その者は声を発したのである。 あることについて時間をかけて考えるということをする者が誰もいなければ、調べたり研究するということをする者が誰もいなければ、 何ごとかを言った者、行動を起こした者、その内容がどうであれ、その者が(それについての)エキスパートということになってしまうのだ。

馬と蹄鉄についても同じことだ。 みんな蹄鉄を履かせるべきだと言い、私はそういうアドバイスに対して質問しないでいた。 他者にアドバイスをするかれらは私よりも多くの知識があるべきだと思うがどうだろうか? しかし、かれらも、長い間、そうしてきたというだけのことなのだ。 何十年もの間、そうしてきている者もいる。 私は「どうして?」と疑問を投げかけることができただろうか?

そうこうしているうちに、ある馬関係の雑誌が目にとまった。
その記事のはじめの数行は、だいたいこういうことが書いてあった。
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馬の蹄は一歩毎にフレックスする(収縮する、曲がる)ように作られていることを知っていましたか? フレックスするというのは単純な動きであるが、馬にとって、健康と寿命に関してすごく重要なものである。 蹄がフレックスすることで、肢、肩の関節、腱、靭帯に対して、ショックアブソーバーの役目を果たし、 蹄という構造自体により、血液の循環を促すポンプの役目を果たし、心臓の働きを補助することによって、 肢部の血液を心臓に戻す助けをする。

蹄がフレックスすることをしなければ、蹄の構造が機能せず、血液の循環をなめらかにすることができず、 けっきょく、健康に害を及ぼすことになる。肢部にある血液を心臓に戻すための(心臓の)仕事は心臓にとって過大となってしまう。 フレックスすることがなければ、ショックを吸収することもなくなってしまう。 蹄鉄が打ち付けられていればフレックスすることはできなくなる。
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なんてことだ!争う余地のない明らかな理屈にほっぺたを叩かれた思いだ。 何にもまして理論!筋がとおっている!事実、真実である!私は何と鈍かったことか。この記事(論文)は 1000頭以上の野生馬(ムスタング)の蹄についての研究結果について解説していた。 もちろん野生馬の蹄はすべて裸である。すべての野生馬の蹄は、似たり寄ったり、 健全であり鋼鉄のように硬いのである。住んでいる、生活している場所の地理、地形、天候に関係なくである。 私はすぐに関連のあるウェブサイトを調べ、本を集め、さらに情報、知識を求めた。

ピート・ラメイ(Pete Ramey)はジョージア在住の、世界的に有名なナチュラル・フーフ・スペシャリスト、 (蹄鉄を履かせず蹄を健全・健康に維持管理する専門家)である。 彼はワイルドホーストリム(野生馬の蹄のように削蹄する手法)を用いている。 その彼は、今までに、蹄鉄を外して裸の蹄にした馬で、その後、問題となった馬は一頭もいないと言っている。

エディー・デュラベック(Eddie Drabek)はヒューストン在住で、彼もナチュラル・フーフ・スペシャリストだ。 彼はヒューストン騎馬パトロール隊の馬のすべてを裸蹄(ベアフット barefoot)にするのに協力した。 ベアフットにした後、馬たちは何の故障もなく仕事をし、以前よりも獣医にかかる費用は少なくなった。 馬たちは、毎日、コンクリートやアスファルトの道で仕事をしているのにである。 蹄鉄をしているときは、馬たちは、しばしば、アスファルトの道でアイススケート状態になり、ライダーを乗せたまま 転んだのだが、ベアフットにしてから転んだ馬は一頭もいない。

デュラベックは、さらに、レイニング、ジャンピング、レース、カッティング、ドレッサージュ、これらの分野で優勝している 馬たちから蹄鉄を外してベアフットにし、より健康な、ハッピーな勝者にしてやっている。 彼は次のように言っている。私のところに連れてこられた馬たちのオーナーは、その馬についていろいろなことを言うのだが、 ととえば、蹄の伸び方が異常である、遺伝的に蹄が悪い、だからベアフットにはできない、蹄がもろい、蹄にすぐにひびが入って治らない、 などなど、そういう馬たちをベアフットにして、すべてうまくいっている。それはバランスよく削蹄してやることによってできることであり、 見た目にも美しいものである。

ラメイ、dhラベック、さらに、ジェイミー・ジャクソン(Jamie Jackson)、ジェイムス・ウェルツ(James Welz)、 マルシ・ランバート(Marci Lambert)といったスペシャリストたちは、獣医あるいは装蹄師にあしの故障(レイム)のために 安楽死させるより方法がないと言われて馬について、1頭あるいはそれ以上の数の馬をベアフットにしてやったことがあるが、 これらの馬のすべてが、ワイルドホーストリムというやり方で削蹄してやった後、完ぺきに回復し、健康を取り戻したということだ。 すぐに直った馬もいるが、1年ほどかかった馬もいる。しかし、どの馬も回復し健康になった。こういう実例がいくらでもあるのだ。

では、なぜ、多くの人が、自分の馬は蹄鉄を履かせないといけないと思っているのだろうか?

その理由は、ストレッサー博士、ラメイ、デュラベック、ウェルツ、ランバートらが確信しているところによると、 何年も蹄鉄を履かされてきた馬たちがその蹄鉄を外されたとき、その時の状態では、そのままの状態では、 蹄そのもの全体と蹄壁は十分な強さを持っておらず、健康、健全な状態ではないからということである。 血液の循環が十分でないため、蹄の状態は健康、健全ではないのである。なぜなら、蹄がフレックスすることができず、 蹄の構造全体をとおして血液が循環できなくなるからだ。さらに蹄壁にクギを打ち込むということをずっと続けているうちに、 蹄壁を弱くしてしまうのである。また釘を打ったことによってできた穴から蹄壁が欠けてしまったり、そこからヒビが入ったり ということになる。また蹄の形状がかなり悪い場合、そういう蹄の中にはベアフットにしてしばらくの間、蹄自体がやわらかく、 もろい状態であることがある。こういうことについて知識のないオーナーが、蹄がやわらかい、もろいということなら、 蹄鉄を履かせねばと結論を出してしまうのである。

そういうことではないのだ。蹄は完ぺきに回復し、新しい蹄になる(生まれ変わる)のである。 新しい角質が成長し蹄の底も固く丈夫なものに変わるのである。こういうことは理にかなったことであり、 あたりまえのこと、ふつうのプロセスなのである。(最終章、情報源を見てほしい。 とくに、ピート・ラメイ、ジェイミー・ジャクソンの本とビデオを勧める) 蹄が、毛の生え際から先端まで全体が新しいものになるのに、だいたい8カ月かかる。 野生馬は日々の活動によって事前に蹄が削られていくわけだが、そういう自然の姿に似せて削蹄してやった場合、 最悪の場合でも、蹄が岩のように硬く健全なものへと完ぺきに入れ替わるのに、だいたい8カ月である。 たいていはもっと早く入れ替わる。すでに述べたが、キャッシュの場合、蹄鉄を外したその日から何の問題もなかった。 そして、そのことがキャッシュにとっては、すべてにおいて良い結果につながったのである。 わたしたちのの6頭のうち4頭は、ベアフットにした後、蹄がやわらかくなる、もろい期間というものはまったくなかった。 1頭は新しい蹄と入れ替わるのに4カ月かかった。もう1頭はほぼ7カ月かかった。 しかし、時間をかけただけである。

『ちょっとまって!私の馬だけど、蹄鉄が外れると、ほとんどその瞬間から、びっこをひきはじめる。 そして蹄鉄を付け直してやるとすぐに戻る。その瞬間から痛くなくなるのだ。ということは、ベアフットより蹄鉄を付けていた方が 馬のためだという根拠ではないか?』と言う人もいる。

こういう経験をしたことはないだろうか? しばらく肢を組んでいて足の感覚がなくなったという経験だ。誰でもあるだろう。 どういうことになるか、どういうことが起こるか、みんな知っていることだ。 足を組むと肢の先端への血液の循環が止められてしまう。血液が供給されなければ神経は正常に働くことはできない。 感覚がなくなってしまう(マヒしてしまう)ということだ。組んでいた足を基に戻した途端、 あるいは、立ち上がった途端、血液の循環が始まる。神経(の先端)にも血液が供給される。 (正常に働く、感覚が戻った)

おおお〜!しびれちゃった!

馬の蹄い蹄鉄がクギで打ち付けてあるということは、同じことが起こっているということである。 蹄がフレックスする機能をうばってしまうということは、血液の循環機能をうばうことである。 蹄という構造が持っている血液の循環機能をうばってしまうのである。 血液が正常に循環していなければ、神経の(それぞれの部分における)先端は、外部からの刺激を感じ取り、 それに反応するということをしなくなってしまう。つまり、「おおお〜!しびれちゃった!」ということが起きないのである。 感じることがないのである。そうして今まで付けていた蹄鉄が外されると血液が途端に循環しだし、外部刺激を感じるようになるのである。 途端に感覚が戻るのである。

えっ、これ、この違和感(しびれ)はいったい何なの?

すでに述べたように、スクリブルスの場合、蹄鉄を外した後の違和感(しびれ、Ouch!)がなくなり、健全な蹄を取り戻すまで 6−7カ月かかった。いまではアスファルトやコンクリートの、山野でも、アリーナでも、どこでも問題なく走り、活動している。 蹄の底はみごとな凹状となっており、蹄骨はそれがあるべきところ、上の方(つまり地面から離れている)にある。 蹄の地面に対する角度は野生馬のそれと同じ角度に傾斜している。 そして石のように固くなっている。

蹄鉄を履かないでいることで何か不都合なことがあるか?欠点はないか? 蹄が成長するには数カ月を要する。自然はそのように作られているのだ。 スクリブルスは正にそのようにして健全な蹄を取り戻した。

蹄鉄を履かないでいて、どのくらいの間をおいて、どのくらい削蹄したらいいか。 それはその馬のライフスタイルによってちがう。野生馬は群として1日に12−15マイル(20−24Km)移動する生活をしている。 野生馬の生活に合わせるなら、そのように削蹄することになる。もし、ボックスストール(馬の個室)の中にいることが多く、 歩きまわることがないなら、われわれの放牧地のような場所で1日じゅう歩きまわり、自ら蹄をすり減らすということがないなら、 削蹄の頻度も、削る暑さも多くなるだろう。どちらにしろ、それぞれに合ったやり方をすればいい。

すでに紹介した蹄のスペシャリストであるピート・ラメイが世界中で蹄のケアについて教えている。 彼が言うところ、我々はつい最近になって、野生馬の実際の生活(the wild horse model)がどういうものか、 かれらが持っている能力、素質について、わかりはじめたところである。 野生馬が暮らす地域で研究した結果、彼は言う。 『かれらの住む地域は、多くは固い石、岩におおわれている。ほとんどは火山の噴火による多孔質の、 ベースボールのボールほどの大きさの石であり 、使おうと思えばヤスリとして使える、蹄を削ることができる、そういう石である。馬たちが通った後というものを発見するのはきわめて希である。 なぜなら、石や岩の間に土というものがほとんどないからである。最近降った雪が溶けて表目がぬかるんでいる地域もいくらかはあったが、 そういう場所でも、石や岩がゴロゴロしていた。馬たちは、このような(ぬかるんで)表面がやわらかくなったところをさがして、選んで歩くということはしていない。』

ピートと彼の妻であるアイビー(Ivy)は、少なくとも60頭を観察し、ビデオに撮り、写真に撮った。 ほんの子馬から年取った馬まで、想像以上の、信じられない過酷な地域をとくべつ大変な様子もなく、 あたりまえのように移動していた。ピートの言うところでは、じゃまものがあちこちにあるところを、 大またの速歩(伸長速歩)でさっさと越えて行ったということだ。その走りっぷりはどんなドレッサージ馬 もかなわないものだとか。しっぽを高々と上げて、首を垂直に近づけ、頭を高くし、 われわれ(ピートとアイビー)2人を、闖入者を警戒して見ながらである。

ピートは続けて言う。 『このような過酷な土地、地域を、あえて馬に乗って行こうなどと考えたことはない。 それに耐える馬など今までお目にかかったことなどない。私とアイビーはといえば、歩くとき、足元を見ながら一歩一歩進まねばならなかった。 岩の上には雪が降り積って表面を覆っていたが、馬たちはそんなもの気にしていなかった。じっさい、かれらはミュール鹿や枝角カモシカよりも ずっと上手に動き回っていた。われわれがその場にいた間、肢を引きずっているもの、レイムのもの、そういう馬は1頭も見なかったし、 どの馬の蹄にも、欠け、割れ、というものはなかった。正に信じられない光景だった。』

ピートや他の者たちが、岩をも砕く丈夫な蹄を作り、馬の能力を大いに高め、不治といわれる蹄の病気を治療可能にした。 それらの実績を見て、世界中がおどろき、ショックを受けた。ピートは言う。 『私はこれらの事実を過小評価するつもりはないが、われわれはまだ氷山のほんの一部、 海面の上に出ている部分すらさわっていないということに気付いてもいるのだ。』

古くからの諺がある。蹄なくして馬なし。わたし自身が今までしてきた研究にかんがみ、このことばは正に的を射ていると言える。 馬に関することで何ごとか不都合なことが起これば、それは蹄がことの始まりであり、蹄を健康に保っているかどうかで、 良くも悪くもなる。蹄が健康、健全であれば、フレックスしていれば、心臓に過大な負担をかけるこはなくなり、 けっきょく寿命を伸ばしてくれる。

そういう状態(ベアフット)であることは馬にとって幸せなことである。気持ちがいい、気分がいいということだけではない。 じっさいに歩いているとき、その歩いている部分、表面(蹄も一部である、蹄底)を感じているからである。 自分が歩いている、それを自分の身体のある部分で実感することができるからである。そのことは気持ちの良いことであり、 気持ちの良い感触であり、歩くということ自体、その行為がより安全、安心なものになることである。 いま述べたことは、正にそのように自然が意図したものである。ビーチの上を歩くとき、靴を履いたまま歩きたいですか? それとも指の間にはさまる砂の感触を楽しみたいですか?うまいたとえ話ではないかもしれないが、 言わんとするところはわかるでしょう。

アメリカ装蹄師協会の会長が協会員にスピーチした内容が協会誌に載った。 その中で彼が言うには、地球上で飼われている馬の90%は程度の差こそあれレイムネス(肢の故障、は行、びっこ)である。 モンタナ州ビリングスにある、The Science and Conservation Center(保護管理センター)の所長である、 Dr. Jay Kirkpatric氏(ジェイ・パトリック博士)は成人してから生涯をかけて野生馬の研究をしてきた。 その彼が言うことは、自然界ではレイムネスというのは希であり、その希なケースで彼が見たもののすべてについて、 レイムネスの原因は肩関節炎によるものであり、蹄が原因ではないということだ。

というわけで、わたしたちの馬たちは蹄鉄を脱いだ。 さて、野生馬の生き方にのっとったやり方にするといって、どうしていいかわからなかったのが事実だ。 蹄以外のありとあらゆることについて、あれはどうか、これはどうか、というように疑問が出てくるのである。 ブランケットは、肢巻は、バーンは、ストールは、飼料は、馬というものの本性は、で、けっきょく、いろいろな要素が ジグソーパズルのように存在するということがわかったということである。まず、1つのピース(要素)についてどうするこうするとやったあげく、 そのことが他の部分に、全体に影響を及ぼすのである。そうこうするうちに、だんだんと、はっきりわかってきはじめたことは、 全体像というものはこういうことだった。 人間は馬のケアをしたり、訓練をしたりするわけだが、それをどのようなやり方でやるかというと、 自分たちに都合が良いように、自分たちのやり方に合わせてやるのである。馬の側から考えてということではないということだ。 いったい、どういうわけで、われわれは今のこういうところ(現状のまま)にいるのだろうか? なぜ、こういう情報(ベアフットについてのことなど)がさっと出てこないのだろうか? 私はこういう質問をマット博士(D. Matt:獣医)に投げかけてみた。彼はかかりつけの獣医である。 質問をしているうちに、これから選挙に出ようとしている政治家と話しているように感じ始めた。

ベアフットについての彼の答えはこういうものだった。 『それは、そうすぐに、白黒決められるものじゃない。』 『その馬がベアフットにできるなら、その方がいい、そういたいと思う。』

『なぜ、どんな場合もベアフットの方がいいとは言えないのか?』『それは・・・、馬にもいろいろ(都合)があるんだ。 とくに問題のない馬もいるが、 問題を抱えている馬もいる。』『都合・問題とはどんな?問題はオーナーの方にあるのか?』 かれは口元でにニヤッとしただけではっきりとは答えなかった。 『ジャンピングやエンデュランスさせるには蹄鉄が必要と考える人もいるのだ。』 『あなたはどう考えているのか?』『馬にもいろいろいるんだ・・・問題ない馬と問題のある馬が。』

けっきょく筋の通った納得できる答えはなかった。彼は他の顧客のところへ行かねばならなかったし、 話は中途半端のままそこで終わった。今までの経験や学んできたことにかんがみ、彼はすばらしい獣医だと思っている。 かれ自身、自分の馬を持っているし、馬が大好きだし、優しい獣医である。 かれ自身、馬とコミュニケーションできている(はずだ)。その彼が、私の質問に対して、 はっきりと自分の意見を言わないのはなぜか?わたしにはわからなかった。 わたしの質問が的を射ていなかったのか?

翌日、私は彼に電話して昼食に誘った。なぜ誘ったのか、その理由も言った。私は彼にこう言った。 『あなたの答えが必要なのだ。あなたが本心ではどう思っているのか知りたい。あなたがそうして欲しいというなら、 あなたに聞いたことを他者に、他所では話さないと約束する。ただ、貴方の答を聞いて、わたしが大まちがいのバカ者でないという ことを確認したいのだ。私が今まで学んできたことによると、馬の世話、ケアということでやっていることのすべてが 実際はまちがっているということなのだが。』翌日、彼が言ったことを聞いて、私はぞっとして、そして悲しくなった。 残念なことだが、馬に関わる世界も、われわれ人の世のあれやこれやと同じことだということだ。

装蹄師という者は馬尾蹄の蹄壁にクギで蹄鉄を付けることによって生計をたてている者である。 かつては、ブラックスミス(鍛冶屋)と呼ばれていた。ある機関によると、地球上に装蹄師は100,000人ほどいるということだ。 蹄鉄をいかに上手に蹄に装着するかということによって生計が成り立ち、自尊心も満足させられるわけである。 いかに、その馬にピッタリの装蹄をするか。蹄についての不都合なものを、ところを、いかに装蹄で解決するか。 バランスについてもそうである。あるいは、馬が痛みをうったえるとき、装蹄師はいろいろなことを考え処置する。 パットが必要か。パッキングか、ウェッジ(V字形のもの)が必要か、あるいは特殊な蹄鉄が必要か。装蹄師が削蹄をしないことはしばしばある。 削蹄は助手がして装蹄師は蹄鉄をその馬に合うように整形し、蹄にクギで打ち付けるのである。 あるナチュラルトリマー(野生馬に似せて削蹄だけする者)が書いている。蹄鉄をやめて野生馬モデルの削蹄だけするというのは なかなかむずかしいことなのだと。こういうことだ。自分が助手を抱えて装蹄という仕事をしていたとして、蹄鉄を履かせることをやめて削蹄だけ するということになれば、今まで助手がやっていた削蹄という作業を自分がやってしまうことになり、助手のやる仕事がなくなってしまうということだ。 それに、彼が言うには、蹄鉄を付けるという仕事は男らしい、かっこいい仕事だということだ。 じっさい、彼は鉄を使って、それをある形にして、クギで打ち付けるという仕事がすごく気にいっていたのである。 私は何人かの装蹄師に、蹄鉄を打ち付けるかわりに、野生馬モデルの削蹄だけするやり方に変えることについてたずねたことがある。

ひとりが答えた。『あほらしい。馬には蹄鉄が必要なんだ。』 私は言った。『どーして?』『そりゃ、蹄鉄を付けてやった方が蹄にいいからさ。』 『野生馬モデルの削蹄だけというのをやったことある?』『あるわけないだろう。やるつもりもない。』 『蹄鉄を外して削蹄だてで問題なく馬がふつうに活動できるようにすることのできるナチュラルトリマーを何人も知っているけど。』 『ベアフットにしたけりゃ誰でもできるさ。蹄鉄を引っ張ればいい。』 『蹄鉄を外して、その後はずっと蹄鉄なしでいいんだ。健康、健全な蹄でいられるんだ。外乗、トレイルでも、普通の道でも、 馬場でも、どこでも蹄鉄なしで大丈夫なのだ。』『あほらしい。』・・・これで会話は終わった。 筋の通った会話にはならなかった。われわれの社会にはたくさん馬がいる。 ということは装蹄師もたくさんいるということだ。

ベアフットやそれに関係することは、馬に関わる者たちの社会においては受け入れられないということ、 そこいらあたりの事情についてドクター・マットは話してくれた。かれ(獣医)が顧客のところに出向いて、 その馬の治療をするわけだが、それはふつう、その馬に何か良くないことが起こっているときである。 病気であるとかケガであるとか。言いかえれば、そう度々あることではない。 装蹄師はたいてい6−8週間おきに顧客と顔を会わせる。1年に8−10回ということになる。 つまり、たいていのオーナーは獣医より装蹄師とのつきあいの方がずっと多いということだ。 もし、ある装蹄師とのつきあいが長年のものということになれば、その装蹄師はその馬のオーナーに信頼されているという ことになるわけだ。ある装蹄師がある獣医のことを悪く言ったり、良く言ったりということもあるわけだ。 蹄鉄を打ちつけている彼の後で、その馬のオーナーに蹄鉄は履かせない方がいいと言う獣医がいたら、 その装蹄師はその獣医のことを、良い獣医だよと人に勧めたりはしないだろう。

ドクター・マット自身、長年よい関係だった顧客を何人か失っている。 蹄鉄を外した方がよいと勧めたせである。そのオーナーは、蹄鉄を付けないことについて、なじみの装蹄師に電話をして尋ねた。 装蹄師の言うことはこうだ。『たいていの獣医は蹄のことについてわかっていないんだ。 なぜなら、彼らは蹄の手当はしないからね。実際に蹄鉄を外してしまう前によくよく考えた方がいいよ。』 わたし自身も、実際に、装蹄師から、こう言われたことがある。

上記の例では、獣医か装蹄か、どちらかが顧客を失うことになるだろう。 なぜなら、(馬の)オーナーが嫌うのは、自分の馬の処置について意見の合わない者(たち同士)であるからだ。 とくに、そのオーナーが、どちらが正しいのやら、判断材料を持っていない場合は。

しかし残念なことに、野生馬のように裸の蹄ですばらしい実績を上げているということについて、 すべての獣医が自らよく学び研究しなければならないというのが現状である。(多くの獣医たちが、まだまだこのことを 知らないということ)そのうえで、顧客たちにこのことを話さねばならないのだ。しかし、じっさい、獣医がそうするのは むずかしいことだ。それを話せば、馬にかかわる世界で、装蹄師たちのきげんをそこなうからだ。

うちの近所に、蹄鉄と装蹄道具をストックして、装蹄師たちに割引価格で売っている獣医がいる。 その獣医は装蹄師たちから良い評判をとろうと思っているのだろう。自分で装蹄師に売っておきながら、 それを外すことを勧めるだろうか?

蹄鉄を付けることで蹄がフレックスするのを妨害するということはわかりきったことである。 蹄がフレックスしなければならない理由もはっきりしている。 蹄がフレックスするメリットも明白である。それなのに、この、馬にとってもっとも良いやり方を否定し、 蹄鉄を自ら装蹄師に売り、なんとも思わない、そんな獣医がいることが不思議でしょうがない。

しかし、ドクター・マットに対して、それ以上言うのはやめて話題を変えた。 『肢巻をするのは良くないとのことだが。その論文によると、馬が特に運動をしているわけではないとき(at rest,休んでいるとき)、 肢巻で肢をきつくしばっておく。そして(肢巻で巻いたまま)運動を始めると、運動している肢に血液をたくさん送りこもうと、 血管は膨張しようとするが、肢巻で巻かれた肢の血管は膨張を抑えられるというのだが、この肢巻をすることは正しいかまちがいか?』 【訳者記:この肢巻については論点がわからない。m(_._)m】 ドクター・マットはニコッとして答えた。 『私の考えでは、肢巻は肢にとって特別よいということはない。まあ、きつく巻きすぎなければ、巻いても害はないだろう。』 私は喰い下がって言った。『しかし、それなら、まったくしない方がいいのではないか?』ドクター・マットは言った。 『こう考えてくれないかな・・・もしオーナーが使いたいと思ったとして、私が巻かない方がいいよと言ったとする。 そして、もしその馬が何かの原因でレイム(びっこ)になったとしたら、誰のせいになるだろうか?』

私は話題を変えるつもりで、『じゃあ、毛布は?』と質問した。 彼の答えはこうだ。『すごく寒く、かつ雨が降っていない限り不要だ。外気が非常に低く、かつ、毛、皮膚がべしょべしょに 濡れているのでない限り、必要なときにちゃんと体温調節ができるすばらしい機能を持っている。雪は問題ない。 寒さと濡れることが同時に起こらない限り問題ない。私は雨が止んだらすぐに毛布を脱がさせるように勧めている。 馬自身の体温調節機能を低下させないためだ。』私は『寒さと濡れることについて確かな研究はなされているのか?』 と聞いた。『後で悔やむより先々と手を打った方が良いということさ。』とかれは言った。 つまり『たいていは、オーナーが自分の馬に毛布を着せるのは、自分が安心したい、その方が気持ちがいいからということですね。 わたし自身がずっとそうしていたように。』と私は言った。彼はにっこりして言った。 『あなたは自分のことしか考えないガンコ者と思われているかもしれないが、ただ誤解されているのだと思いますよ。』

ストールとバーン【訳者記:ストールは1頭ずつの小部屋でバーンはある大きさを持った馬小屋か?】についての彼の意見はこうだ。 『馬はできるだけ動き回った方がいい。毎日、1日24時間(24/7)ずっと動き回るのがいい。』 私は歓声をあげた。ついに無条件での賛成を得たのだ。私は『顧客にもそれを勧めますか?』と尋ねた。 かれの答えは『それは相手のことを考えてアドバイスするよう心がけている。3.6m四方のストールしか与えることができない人に 他のことを勧めてもしかたがないからね。』もし本当に自分の馬のことを愛しているなら何とかして、 その馬に最高のことをしてあげようと方法を見つけようと私は思うし、少なくとも何かしらできないかと考えるものだと思うが、 ここでも、それ以上は言わなかった。

昔から言われていることがある、とドクター・マットは言った。 『金を残すか、馬を持つか。両方はできない。』 『私が呼ばれるのは最後の最後なのだ。なぜなら、みんな獣医にお金を使いたくないのだ。 昨日、私があなたのところにいたとき、私に電話がかかってきたのを覚えているでしょう。 その電話をくれた人のところへ行ったら、その馬はもう3日間も起き上がらず、何も食べず、糞もおしっこもしないでいると言われた。 3日間もだ!』彼は信じがたいという顔で言った。そして『私の人生は毎日こういうことの繰り返しなんだ。』と言った。 私が『馬を飼ってはいけない人がいる。』と言うと、彼はそれに対してうなずいた。

ドクター・マット(のような人)がいてくれることを私は神に感謝した。 彼が(日々)やっていることなど私にはできない。彼が(日々)直面していることに対処することなどできない。 (もし私が獣医になったとしたら)開業第一週めが終わろうとしているときになっても、私の顧客になってくれる人はいないだろう。 【訳者記:ジョーは獣医でなくてよかった。ジョーはただ自分の馬を持っているだけで、ドクター・マットは日々めんどうな顧客の相手を しているのだ。】

(しかし)夜明けは近いと感じている点では彼も私と考えを同じくしていた。 『何世代にもの間、馬は単なる使役動物でしかなかった。牛と同じように。あるいはトラクターのように。』と彼が言った。 『あるいはモーターバイクのようにね。』と私は言った。 『あなたのような人たちが言うこと、することが世の中に知れわたっていくことや、 ナチュラルホースマンシップのクリニシャンやベアフットトリマー(削蹄師)や、これらのことをよく研究している獣医が 増えていくことで状況は良くなっていくと信じている。』と彼は言った。『私もそうあってほしいと望む。』と言った。

しかしながら、残念なことに、たいてい、その(良き)知らせは、われわれが助言を求める相手からもたらされることはない。 その相手とは装蹄師である。かれらの多くはベアフットののぼり(スローガン)をかかげることはしない。 もし、そうするとなれば、かれらの持つ技術、技能の中身を完ぺきに変更しなければならない。 そうでなければ仕事にならない。仕事ができなくなる。 かれらの中のわずかの者が、正にそのことをやったのである。しかし、この、わずかということでも、大きな意味があるのだ。 たいていの者にとって、自らが変わる、変えるということはすごくむずかしいことであること、それがたとえ良いことであっても、 ということについてはすでに述べた。

獣医についても、その多くは、同じ理由で、はっきりものを言えないのである。なぜかと言えば、 経済的なこと、お金がからむということだ、顧客を失うというリスク、怖れがあるからだ。 今まで何人かの獣医と話をしたが、かれらは、『あなたの言うことにまったく同感だが、私がそう言ったことは他の 人には言わないでほしい。』と言った。彼らの多くは、顧客を失うことなく、ちょっとした厄介なことを上手く処理しつつ、 仕事をやりこなさねばいけない、と感じているのだ。かれらが直面している状況がわかれば、そういうかれらを非難することはむずかしい。

自分の馬の目をじっと見つめるということをしないうちは、そうであったが。
【訳者記:好ましくない状況に対して、しかたがないと言ってはいられなくなった。】

馬をただの馬としてほっておくということは、蹄鉄、肢巻、毛布(馬着)、プレハブのバーン、自動給餌機、 などなどのメーカーが許しておかないだろう。かれらがビジネスチャンスを捨てることはない。

こういうことを考えてほしい。 馬が野生にあって自らのためにやっていること、やっているやり方よりも、他者がかれら(他者)自身のためにやっていることの方が、 かれら(他者)の言うようにした方が、(馬を持っている)あなた自身のため、利益になると言っているのである。 そういうのを聞いたら、よくよく考えてほしい。 タバコ会社の社長たちが議会において、タバコは健康に害はないときっぱり証言しているのを見たら、聞いたら、よくよく考えてほしい。 自分自身で調べてほしい、研究してほしい。そして専門家たちの言うことと比べてみてほしい。 自分で知識を深くし、他の誰かに、あなたに代わって判断させないことだ。 それが馬のことであれ、あなたの命のことであれ。

そして、もし、馬を自分のものにすることがあれば、彼が牛やトラクターやバイクでないと(あなたが思っていることを) 示してやってほしい。彼はパートナーなのだ。そして、あなたがリーダーであり、彼のことを愛しているかぎり、 最高の世話をしてあげるということを教えてやってほしい。

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